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春はあけぼのよ 2023/4/29

友達が私の文章を読んで『清少納言っぽい』と激賞してくれたのを真に受けて、『枕草子』っぽく書いてみることにする。

○スマホの壁紙とロック画面を変えた。
それだけでずいぶん気分が変わった。
新緑の画面は日常に圧倒的な光をもたらしてくる。


若草山だよ


○ゴールデンウィークに子どもがいる友達と遊ぶ日を決める時、参考のため、子どものいる妹の動きなどを見てみると『5月5日』は避けた方がいいのかと知り、「○○ちゃんと遊ぶ日、5月5日は避けようと思う」と妹に言うと、「あ~、子どもがいるもんね。5月5日は避けた方がいいね」と言われてもやもやする。

言われたらでよくない?

と思う。
自分から思い付いたくせに、明示されると腹が立つ。

『5月5日』に腹を立てているだけかな?
数年おきに『5月5日』とケンカしている気がする。
『5月5日』は、私にとっては、ちまきと柏餅を食べる日。
家に『男の子』がいる妹や友達にとっては、兜となんだっけ…あの…鎧? 旗? 知らん!
何か、男なるものの象徴なる物の模型の日。

ただ川にたなびく鯉のぼりはおもしろい🎏


野生の藤

○ゴールデンウィークは地元に帰り、子どもがいる友達と会うことにして、日にちを『5月4日の祝日』に決めた。
その後、私の都合で、『5月6日(土)』に変更できないか尋ねたら、『土日は旦那が休みだからできたら避けたいなー💦』と返ってきてもやもやした。
私のもやもやは出現してすぐに温度を上げて沸き上がる。
旦那とは毎日会えるじゃねーかと思う。
私にはゴールデンウィークにしか会えないんだぞ。
旦那の方が先にしていた約束ならともかくだよ。

脳内で友達の旦那と自分を秤にかけ、常に一人で負けている。
私が勝てる時などあるのだろうか。(いや、ない。)
旦那が日頃家で会えないぐらい会社で仕事に勤しんでいるのかもしれない。国が悪いってことにして忘れよう。
しかし、そもそもはすでに決まったものを、自分の都合で変更したがった私が発端ですよ。


心を広くして

○以前、妹の子どもが2歳(現在は3才)でまだしゃべらないのだということを話した時、発達の遅れや障害についての推測を返してきた人たちのことは、今も忘れない。
返してきた本人としては、何の『偏見』も『差別心』もないつもりで、むしろ『親切心』から発した推測や読みなのだろうが、普通に傷付く。そして、傷付いたり、その見立てに感染して不安を覚えた自分の中の偏見や差別心に気付いてさらに落ち込む。
まず、素人の見立ていらねえ。そっちは言って終わりかもしれないが、こっちは永遠の日常だからな。

というか、私・が・人・選・を・間・違・え・て・い・る!

誰かの話す厳しい話に対して、『何も言わない』か『ただ聞く』、というのは本当に本当に高度な態度なのだろうと思う。
自分だって心がけているつもりだができているかどうかはわからない。安易に、自分としてはやさしいつもりの言葉を投げかけているかもしれない。
聞く態度も、話す相手も間違えたくはない。
でも、話そうと思ったこと自体は間違いだったと思いたくない。相手に対する希望を持ちたいから話すのだし、それで返ってきた答えが浅くても、それに対してこちらが合わせてあげなくてもよいのだろう。その答えは気に入らないよ。と伝えてみてもいいのかもしれない。


ニューヨーク

○ホテルのティールームで飲むお茶は高い。
空間や給仕やブランドに支払っているのだろうが、抹茶と季節の和菓子が1500円って、はーっ。
それを消化できずここに書いてしまう自分にも、はーーっっ。

○授業に行く際、職員室のラックの形状の棚からクラスの出席簿を取り出して持っていく。担任によっては、ラックに出席簿と共に『学級日誌』をぶっさしていることがある。
1限目にそのクラスに授業に行く場合、こちらとしては、え? これって出席簿と共に『学級日誌』も持っていけってこと? となる。持っていくだけならまあよいが、『本日の日直』に手渡すところまでやれってこと? となると、話は変わってくる。まず、教室に着いて、教壇で『学級日誌』を開き、前の日の日直の書いたページから前の日の日直を調べる。それから、出席簿などを開いて『前の日の日直』の名前を探し、さらに次の番号の人を探り当て『本日の日直』に任命する。名前を呼ぶ。『学級日誌』を私のいる教卓のところまで取りに来させる。
……めんどくさっっっ!!!!
任命する…って書きながら、なんで私が任命しなきゃいけないんだよ。私はこのクラスのことなんて国語の授業以外全くの部外者だぞと思う。
上記の一連の作業が丁寧で親切すぎることは、私だってわかっている。だから、授業が始まり全員が席に着いた時点で『学級日誌』を開き、『前の日の日直』が判明したところで、クラスに『○○さんの次の人~?』と呼び掛けてみる。しかし、ほぼ100パーセント誰も来ない。反応もない。なぜか? 自分の前後の番号の人を知らないからだよ! 怖い話でしょう?

隣の席の欠席者が誰なのか? 聞いても、『わかりません』と言われることもある。無関心か、他人との間に線を引きすぎているからか。マスク生活の影響もあるのか。原因は知らないけど、こういう瞬間に遭遇すると頭の中でブチッと何かが切れる音がする。自分はそういう不自然さを放置している感覚が許せないのだと思う。
『本日の日直』が誰かを解明してあげて、名前を呼んであげて、『学級日誌』を手渡してあげるのは優しすぎるな。担任も生徒ももっと動く必要がある。優しくて気遣いのできる私が一人でやりすぎ。これも言おう。

※看過できる例としては、担任があらかじめ翌日の日直の名前を『学級日誌』に記入しておくこと。そして、1限の授業担当者に、出席簿と共に『学級日誌』も持って行ってほしい、と『お願い』すること。それぐらいやってくれ!


若草山案内図⛰️⛰️⛰️

○春先は、行事の関係で、学年ごとに『授業無し』の日がある。日によって違うのでややこしく、予定表を確認したり、人と話して把握しておかないとうっかり間違えることがある。
ある人に、『今日、○年生は授業が無いなんて知らなかった! 今来て初めて知った』と話し掛けられて同情し、『本当は休めたのに?』と返すと、『いや、片付けなきゃいけない仕事が山ほどあるし、次とその次の時間は別の学年の授業があるから』と言われる。
なんだそれ、大したことない話だな! 私の同情と優しさを返してくれ。何が言いたかったんだ? 私の思慮はそっちが思ってるよりも深いんだぞーーー!簡単に持ってくなドロボー!


池ちゃん

○友達が維新の政治にまったく疑問が無さそうだったり、街を一緒に歩いている時に見掛けた『みゃくみゃく』のイラストに無邪気に反応するのを目の当たりにすると、激しく混乱する。もちろん心情的には友達と同じようには笑ってなどいられないのだが、果たして何も知らないっぽい人に教える必要があるのかわからない。いや、その悪政について話したことはあるのだが、あまり怒りを覚えないようだった。怒りは教えるものじゃないからな。しかし、『バスがみゃくみゃくになってる!』と嬉しそうに指さされることに合わせて私が笑ってあげる必要もないはずだ。政治信条が異なる相手と友達をやっていくって無理じゃないか? と思ってしまう。政治信条が異なるというより、相手のなかに存在しない場合はどうしたらいいんだ?
機嫌よく話されることに対していちいちストップをかけていたら、私の方が難しい人になるだけではないか?

※『みゃくみゃく』は大阪関西万博のシンボルキャラクター。

怒りすぎですよーー

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「ててて日記」を読むと、もしかしたら、一人だけど一人じゃないなあって思えるかもしれないです。 ほんの時々、これは知らせたいぜひ! っていうことを、急に書いたりします。 最近は、学校の話が多いです。 好きなのかも。 あとは、家族の話、生き方についてや悩んでいること…。 購読したいけどシステム的に(?)難しいなどの方はお知らせください~。

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