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ソフトボール実業団選手からサッカー日本代表監督になった私。

私は活発な女の子でした。
髪は短く、がに股歩き、運動会は私の日。
性格は、年上男子に勝負を挑むような負けん気のカタマリ。

そんな私は小学3年でソフトボールを始めました。
小6で『四国一』と知り合いにおだてられ、調子に乗っていました。
中3で『県一』と知り合いにおだてられ、更に調子に乗っていました。
高校は県内強豪校でしたが、1年からレギュラーになり、2年には県選抜として国体に出ました。
高3の夏には地元実業団である「伊予銀行女子ソフトボール部」入団が決まり、私の鼻はどんどん伸びていきました。


しかし、実業団でその鼻はアッサリ折れました。

トレーニングについていけない。
試合に出れない。
出ても活躍できない。
年齢無関係で能力が高い。

人生初の挫折です。

監督・コーチの目や口の動きを見ては、自分の悪口だと不安になりました。
ノック練習は、ミスに怯え、目に涙を浮かべて打球を追っていました。
バットを振れば振るほど他人と比較し自分の無能さに打ちひしがれました。

これまで挫折経験がなく挫折への免疫がなかったのです。
周りの環境のおかげで「過信」という甘い蜜を吸わせてもらっていました。
そしてトップ集団に入り「未熟」な自分に気付きました。
そのまま路頭に迷いながら5年間の実業団時代は終わり、私のソフトボール人生は幕を閉じました。


そんな人生真っ暗な中、自分を救う光がありました。
サッカーへの意欲です。

実は、幼小期からサッカーが大好きだったのです。
小中高、ソフトボールの練習後、汗だくになるまでボールを蹴っていました。

「ソフトボールをやめたらサッカーがしたい。この状況を打破したい。サッカーだったらできるかもしれない。」

そう思ったのです。

 その夜、ワクワクして寝付けませんでした。
今でもその高揚感を覚えています。


引退決意後、女子サッカー部の友達に聞いて、チームを探しました。

そして、
なでしこリーグ参入を目指す「愛媛FCレディース」というチームが、同じ松山市内で活動していると知りました。
愛媛FCレディースは、社会人と短大生が混合した組織です。
短大は愛媛女子短期大学(通称アイタン)と呼ばれ、愛媛ではソフトボールに力を入れている短大として知られていました。

私が入学するタイミングで環太平洋大学(IPU)短期大学部に変更されましたが、通称アイタンはそのまま引き継がれました。

アイタンは、スポーツ学科があり、幼稚園・小学校の教員免許が取得できました。
私は学歴が高卒・無資格だったので、サッカーと教員免許取得の2つを目的に入学を決めました。

ソフトボール引退の翌年、私はサッカー選手となったのです。


今までの壁当てではなく、相手にパスができる喜び。
11人vs11人の試合を初めてした時は、幸福感でグランドの景色が虹色に輝いました。これは比喩ではなく、本当にキラキラと輝いていたんです!

サッカーレベルはピラミッドの底辺でしたが、ソフトボール時代と違い、下手な自分を素直に認めて練習に取り組みました。

ボールを扱う技術、効果的なポジションの理解、相手との駆け引きなど
上達身していく充実感や成長感をエネルギーに、私は前進しました。

それと同時に、ソフトボールとは異なる考え方や状況に葛藤を繰り返していました。

敬語がない、ランニングの列はないアップが短い、
サインがない、状況判断の違い、選択肢が自由など
多くの違いがあったと感じます。

混乱しながらも自分と向き合うしかありませんでした。

私は、ソフトボール人生で確立した価値観を引き裂く苦しい時間を過ごしました。

その後、5年間の愛媛FCレディース時代では公式戦に2度 途中出場するのみでした。

移籍を決意し、茨城県にあるつくばFCレディースに1年間在籍しましたが、試合に出てチームの勝利に貢献することはできませんでした。

結局、6年間のサッカー人生で公式戦に出ることはほとんどありませんでした。

私は、ソフトボール時代のレギュラーとしての存在感や活躍をした充実感など、華やかな瞬間に出会うこともなく、練習と練習試合を繰り返し引退しました。

しかし私にとってサッカーは、
「ソフトボール時代の挫折を埋めるもの」ではなく、
「自分を大きく変化・変容させてくれたもの」になりました。

私に残ったものは、
異なる価値観を受容できるキャパシティ、
何も知らない場へ飛び込む勇気、
そして競技変更の経験でした。

ソフトボールとサッカーの経験を経て、
私はサッカーの指導者になりました。

次第に障がい者スポーツに興味が沸き、
デフサッカー女子日本代表コーチの情報が入りました。
私はすぐに履歴書を送り、当時の監督と顔合わせを済ませると、採用となりました。

デフサッカーに関わる不安はありませんでした。
それよりも聴覚障がい者はどんな風にサッカーするのだろう?と、興味と関心に包まれていました。


デフサッカーは今までの指導法をベースに、
更に視覚的・感覚的な工夫やサポートが必要でした。

文字起こし
イラスト・図
動画
が必須です。

また、
聞こえない・聞こえにくい選手に対して、プレー中は音声での指示が難しいです。
そこで事前学習を行ない、学習した内容をプレー中にトライする方法をとりました。
その結果、選手自身がプレーを振り返る回数が増えたと感じます。

デフサッカーのコーチを3年経験し、
前監督の退任をきっかけに、私はデフサッカー女子日本代表監督になりました。

監督となり、
私は更に価値観や自身の変容に成功しました。

マネジメント力
リーダーシップ
自己受容力
スピーチ力
責任感

これらに大きな変容がありました。

自分が目指すチーム像、監督像を追い求め、
自分の価値観を再確認し、
目標達成する責任感と向き合う日々。

気付くとソフトボールで鼻を伸ばしていた時には想像できないほど、遠い別世界に住む異次元な自分になっていました。

今は監督業はしていませんが、アイタンで取得した教員免許を活かして小学校の先生となりました。

私は子ども達から多くの刺激や学びを得ています。

今後も自分の変容に大きく胸を弾ませて
前進しています。

楽しみ!!

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