人生のなかでやり過ごしてはいけないもの
去年の11月末から今年の8月末の9か月間に、3人の身内を亡くした。
まず昨年11月末に母方の叔父が突然亡くなった。家のなかでひとり倒れていて、発見されたのは3日後である。6歳のときに父方の祖母が亡くなって以来、実に35年ぶりに起こった近い親族の死だった。
とはいえ生前も数年に一度会うか会わないかという距離感だったため、悲しいのは確かだけれど号泣というわけでもない。ただ、人生が突然終わってしまう可能性を目の当たりにしたショック、そしてひとりで死んで3日間も見つけられなかったという事実が胸に迫り、なんともやるせない気持ちが地味に続いた。
年が明けて叔父の四十九日が近づいてきた頃、今度は父方の祖父が亡くなった。98歳の大往生である。生まれたときから一緒に住み、ひとり暮らしを始めてからは年に数回会うだけだったが、30代後半に実家に戻ってからの2年間は再び一緒に暮らした。そのときすでに90代半ばだった祖父は聴力や認知力が低下していて、コミュニケーションがスムーズに取れないばかりか自分の世界に閉じこもることも多かった。そして私はそんな祖父をあまり気にかけず、はっきり言うと大事にしなかった。それでも小さいときから一緒に暮らした祖父である。別れが近づくと、ものすごく悲しかった。
叔父の突然死に動揺した私は、そんな祖父との別れに備えたかった。だから祖父が旅立つ前の1週間は仕事を夕方に切り上げて彼が入居する施設に毎日通った。最後に見舞った日の帰り道、施設を出て角を曲がるときにふと、なんとなくもう送る準備ができたような気がした。そしてその日寝る前、なぜか唐突に心の底から「ハラボジ(おじいちゃん)、気をつけて」という思いが芽生え、ベッドで泣いた。今思うと、私はそのとき生まれて初めて「祈る」という行為をしたのかもしれない。祖父はその4時間後に旅立った。
ちなみに叔父の死去と祖父の死去の間の約49日間に、私は新しいクライアントと契約をしてスタートアップのメンバーとして働き始めただけでなく、法人まで設立した。振り返れば怒涛の日々だった。
新しい仕事やら会社設立やらで祖父が亡くなった悲しみに浸る暇はあまりなかった。ときどき、夜寝るときやお風呂のなかなんかで涙は出たけれど、大往生だったのだし、と自分の気持ちに向き合おうとはしなかった。世の中にはもっと若い頃にもっと近い間柄の人たち、たとえば親やきょうだい、パートナー、そしてこどもを亡くした人さえいる。それに比べれば40代の孫が98歳の祖父を老衰で亡くしたぐらいでいつまでもめそめそと悲しんではいけないような気もした。
2月末に祖父の四十九日法要が済むと、その2日後に母方の祖母が倒れた。脳出血である。外科手術は断念するという。運ばれた病院に見舞いにいくと意識はなく、むくんだ顔をしていびきをかいてずっと寝ている。また葬儀が近いかもしれないと覚悟した。
しかし祖母はそのあと驚異的な生命力を発揮した。1週間後には目を覚まし、麻痺は残るものの車いすに座れるようになり、柔らかいものであれば口から食べられるようにもなった。4か月の入院生活の末に6月には施設に戻ることもできた。しかしそうして安心したのも束の間、8月の末に祖母は突然逝ってしまった。人生最後の日は施設のカラオケ大会で2曲歌いあげたらしく、施設関係者は皆口々に「昨日あれだけカラオケ楽しんでたのに…」と驚き悔やんでくれた。
祖母の死は半年前に一度覚悟したし、正直3回目となるとなんとなくもう葬式慣れしてしまった感もあった。だからこのときは叔父や祖父のときほど、悲しくはなかった気がする。そして、またすぐに日常を通常運転できると思っていた。というか、滞った仕事を片づけるにはゆっくりしている暇もなかった。
そこから私はどんどん調子が悪くなっていった。まず持病の片頭痛が悪化した。記録によると9月で頭痛のあった日数は19日間である。それに加えて気分がふさぐ日が多く、考えても仕方のない未来を描いては落ち込んだ。イライラしやすくもなった。普段飲む薬を変えたせいかな、とも思ったけれど、それにしてもこれはちょっとやばいな、と自覚するほどだった。
そんな状態を周りの人に共有するのにはとても抵抗があった。家族も含めた近しい人にも負担はかけたくなかったし、クライアントなどもってのほかである。仕事関係者の多数とつながるSNSでも何も投稿できない。私自身の評判にかかわるし、変化に乗り遅れないよう常に走り続けなければならないプレッシャーもあった。
しかしその抵抗がどこから来るのかというと、「心身壮健で事情のない人」に最適化された社会構造を受け入れ、そこでの望ましい姿を目指しがちという私の悪癖、もっといえば内在化されたステレオタイプである。それに気づいた私は結局9月の終わり頃から、クライアントも含めて信頼している人たちに少しずつ不調を共有し、目の前の責任を果たす以外のことは決してがんばらず、「~しなければならない」という考えをなるべく排除し始めた。各種病院にも行って薬も色々処方してもらった。祖母の葬儀からの1か月半は、そんな感じで過ごした。
そして昨日は、祖母の四十九日法要だった。遺影とお骨の前で2回チョル(跪き額を地面まで下げる朝鮮式のお辞儀)をしたときに、ああ祖母は本当に逝ったんだなと実感し、また涙が出た。葬儀やそのあと家に安置した祖母の遺骨に向かって手を合わせてもそうは感じなかったのに、チョルをするとそんな気持ちになるのは祖父が亡くなったときもそうだった。
もともと、実家では毎年先祖の命日や盆正月にチェサという儀式を行い、亡くなった人に対して2回ずつチョルをしている。幼い頃から深く考えずにやってきた儀礼だが、それはいつしか私のなかで最も明確に「あっち側」と「こっち側」を隔てる象徴になっていたのかもしれない。それまで「こっち側」にいた祖父母に対して2回チョルしたことで、彼らはまぎれもなく「あっち側」にいったのだと、私はこのとき本当にはっきりと思い知ったのだった。そしてそれによって彼らの死、もっと言えば「こっち側」で一緒に過ごしてきた近い人たちがいつかはいなくなってしまうという、わかってはいたけれど実感のなかった事実をようやく我がごととして受け入れたのだと思う。
時が止まったような古いお寺の本堂で、祖母だけでなく祖父、叔父の死に改めて向き合っていると、私は本当に辛かったんだと、その気持ちをようやく認めることができた。そして不思議とずいぶん楽になった。
納骨が終わったあと、和尚さんが自分がはめていた数珠をお守りとして私の腕につけてくれた。そしてもろもろ激励の言葉を並べ、最後は「尹華は観音様に見えるわ」という謎の言葉で締めた(この和尚さんは以前から尹華という私の名前がたいそうお気に入りで私にいろいろとよくしてくれる)。もちろん坊さんにそう言われたからといって煩悩にまみれた自分を観音様のようだとは思いもしないが、でも何の根拠もないその言葉を機にまた自分を信じてがんばれそうな気がした。
私はこの9か月間、やり過ごすべきじゃない期間をやり過ごそうとしてきたのだろう。祖父が死んだとき、友人の1人が「今日は思いを馳せる日だね。そんな日は、人生のなかでとても大事な時間だという気がする」という言葉をくれたが、その意味が今になってわかる。自分の人生や親族マップのなかに当たり前のようにいた人たちとの別れを消化する時間は決して惜しむべきじゃないのに、私はめまぐるしく流れる情報やら世の中やら自らの欲やらに流された結果、人生の優先順位を見誤っていた。
来月は叔父の一周忌、そして年が明けると祖父の一周忌が控えている。こっちの世界では色々と苦労の多かった人たちだが、あっちの世界で幸せでいてくれたらなと思う。なお祖母は本当にドラマのありすぎる人生を送った人なので、それについてはまた改めて書きたい。