お気に入りをアップデート
3度目の東京生活に1年4か月で見切りをつけ、故郷の京都に戻ってきたのは6月のことである。案の定東京に比べると蒸し暑さは段違いで不快と言っても差し支えないレベルだが、それでも思った以上に居心地がいい。
なんというか、ものすごく気楽なのだ。図々しくいられると言う方が正しいかもしれない。そして振り返れば東京では知らぬ間にずっと緊張して暮らしてたのだと気づいた。
20代や30代の頃はむしろその緊張を楽しんでいたように思う。東京という都会生活が板につく大人になろうと背伸びをし、高級なバッグや靴を身につけて都心で働く自分がかっこいいとも思っていた。大好きな場所は伊勢丹新宿店。雑誌に載っているようなお店で食事をするのも大好きだった。
20代〜30代にそんな価値観を持っていたのは完全に小説やドラマの影響だ。特に20代前半の頃、林真理子の小説や『セックス・アンド・ザ・シティ』に出てくる享楽的で、物質主義で、自分がどう見られるかを十分に意識した女性たちに憧れた。そして自分がどんな人間かを理解する前に、そうした虚構の女性像に自分を近づけようとした。自分が本当に好きなものもわからず、メディアで見たイメージを構成する要素を手に入れることで満足していたのである。「若さゆえ」という言葉で片づけるのは躊躇するぐらい、浅い。
しかしそんな日々はなかなか楽しかった。そしてその印象がずっと残っていたからこそ、40歳直前にまた東京生活を始めたのだ。しかし、1つ大きなことを忘れていた。私自身が大人になっていたという事実だ。
だから昔と同じことをしても全然楽しくなかった。
かつては上から下まで時間をかけて見回ってた伊勢丹は、「人が多いからなるべく行きたくない場所」になっていた。前と同じように洋服やら靴やらを買っても、なぜかそれを身につけるのが億劫になった。無駄に肥えた舌のせいで半端な外食にお金を遣うのが馬鹿らしくなり、食事はほぼ自炊。
この数年は特に自分を散々振り返ったり掘り下げたりして、私はようやく自分がどんな人間で何を大事にしたいのかを見つけたところだった。けれどそんな自分の成長がすっぽり抜け落ちたまま、「東京=楽しい場所」という思い込みをまったく疑うこともなく、アップデート前の自分が持っていた印象をそのまま引き継いでいた。
同じことは洋服にも言える。私には着ない服がたくさんあり、私はそれらをとても大事にしていた。なぜならそれは若かりし頃に手に入れた「お気に入り」だったからである。
しかしクローゼットの3分の2を占めるそれらの出番はここ数年特になく、ただ場所を食いつぶす荷物と化していた。そんな状態にさすがに疑問を持ったある日、本気ですべて着てみたところ、絶望的に似合わない(ちなみに「本気で」とは、フルメイクを施し髪型を整え、バッグと靴まで合わせてみたという意味である)。自分の加齢やセンスの変化がすっぽりと抜け落ちたまま、一度貼った「お気に入り」ラベルを頑なに信じていたのだ。完全なる思考停止である。
大人になって大事にしてきた「お気に入り」は、もはやお気に入りではなくなった。その事実を目の当たりにすると、ひとつの時代が去ったかのような感慨がある。大人としての最初のステージが終わり、次の段階に進むような気分だ。
それは少し寂しいような一方で、何か解放されたような爽快感がある。そして、一度お気に入り認定したものにしがみつく必要はないのだという安心感。大袈裟に言えば、自分はまだまだ進化し、新たなものに価値を感じられるのだという希望だ。
一度手に入れたお気に入りを手放すのは怖いし、執着はなかなか消えない。けれど思い切って手放してみると、思った以上にさっぱりするものだと身を以てわかった。