第5章 武家社会の成長
4.戦国大名の登場①
戦国大名
応仁の乱に始まった戦国の争乱の中から、各地方では、その地域に根を下ろした実力のある支配者が台頭してきた。
16世紀前半、京都を中心とする近畿地方では、なお室町幕府における主導権を巡って、細川氏を中心とする内部の権力争いが続いていた❶。
しかし、その他の各地では、自らの力で作り上げた領国(分国)において、独自の支配を行う地方権力が誕生した。これが戦国大名である。
関東では、すでに応仁の乱の直前に、鎌倉公方が足利持氏の子成氏の古河公方と将軍義政の兄弟政知の堀越公方とに分裂し、関東管領上杉氏もまた山内・扇谷の両上杉家にわかれて争っていた。
この混乱に乗じて15世紀末、京都から下って来た北条早雲(伊勢宗瑞)は、堀越公方を滅ぼし、 伊豆を奪い❷ついで相模に進出して小田原を本拠とし、その子氏綱・孫氏康の時には、北条氏は関東の大半を支配する大名となった❸。
中部地方では、16世紀半ばに越後の守護上杉氏の守護代であった長尾氏に景虎がでて、関東管領上杉氏をついで上杉謙信と名乗り、甲斐から信濃に領国を拡張した武田信玄(晴信)とも、しばしば北信濃の川中島などで戦った。
そのころ駿河・遠江には今川氏、越前には朝倉氏、尾張には織田氏らの強豪が並び立っていた。
中国地方では、守護大名として強盛を誇っていた大内氏が、16世紀の半ばに重臣陶晴賢に国を奪われ、更に安芸の国人から興った毛利元就がこれに代わり、山陰地方の尼子氏と激しい戦闘を繰り返した。
その他、四国には長宗我部氏、九州には大友・龍造寺・島津などの諸氏、東北には伊達氏など、各地に有力大名が独自の分国を形成して争いを続けた。
彼らは、島津・大友・今川・武田氏などの例を除き、ほとんどが守護代か国人から身を興したものである。
このように古い権威が通用しなくなった戦国時代において、戦国大名として権力を維持していくためには、激しい戦乱で領主支配が危機に晒された家臣や更に生活を脅かされた領国民の支持が必要であり、戦国大名には、 新しい軍事指導者・領国支配者としての能力が強く求められた。
戦国大名は、新しく服属させた国人たちと共に、各地で成長の著しかった地侍を家臣として抱えていく事により、その軍事力を増強した。
そして、大名は、これらの国人や地侍らの収入額を銭に換算した貫高という基準で統一的に把握し、その地位・収入を保障してやる替わりに、彼らに貫高に見合った一定の軍役を負担させた。
これを貫高制と言い、これによって戦国大名の軍事制度の基礎が確立した。
このようにして大名は、 新しく多数の地侍を家臣団に組みいれ、彼らを有力家臣にあずける形で組織化した寄親・寄子制によって、鉄砲や箱などの新しい武器を使った集団戦もできるようになった。