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転職の達人 藤堂高虎 〜終身雇用はオワコン〜

藤堂高虎(1556-1630)は、戦国時代の武将である。彼の注目すべきところは、まず、主君を7回変えたこと世渡り上手と言われた反面、薄情ものと陰口を叩かれた武将でもある。しかし、彼は、主君を変え働く環境が変わるたびに、スキルを習得し、技術を磨き上げ、家禄を増やし、大大名としての地位を築いた。

浅井長政 →  阿閉貞征 →  磯貝員昌 →  津田信澄 →  羽柴秀長 →  豊臣秀吉 →  徳川家康

↑ 生涯で、主君を7回変えた。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/浅井長政

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/阿閉貞征

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/磯野員昌

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/津田信澄

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/豊臣秀長

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/豊臣秀吉

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/徳川家康

○ 藤堂高虎の特徴は?

身長が190センチ以上あり、体重が113キロ

若い頃は、戦さで、武功を上げるタイプであった。当時の成人男性の平均身長は、約155センチ。高虎がかなりの高身長であったことが伺える。姉川の戦いでは、武功を挙げたと言われている。

○ 藤堂高虎の転機は?

羽柴秀長との出会い

戦場で槍働きをする猪武者であった高虎が、秀長との出会いにより、才能を開花させ、人生を大きく飛躍させた。

○ 羽柴秀長の状況下

兄秀吉が、織田信長の下で活躍し猛烈なスピードで出世

その中で、優れた家臣団を作るためにも、秀長は優秀な人材を探していた。そこで秀長の目に止まったのが高虎だ。当時彼は、恵まれた体格と勇気を評価され、人物のスケールの大きさを期待されて登用された。

家禄は、300石(以前の最高禄高は80石)

○ 1577年、中国攻めの際、槍働きでない仕事を秀長に任される。↓ 新しい仕事へ挑戦。

① 鉄砲隊を任せられる(精鋭部隊の育成)
② 兵站を任せられる(そろばん知識の取得)
③ 水軍を任せられる(水軍技術の取得)
④ 和歌山城築城(築城技術の取得)

秀長は、高虎の潜在能力と可能性を見出して、チャレンジさせた。結果的に、高虎にとってのターニングポイントとなり着実にスキルアップしていった。

[武将×技術者]としての付加価値をつけ、彼は戦場で槍働きする武者から技術者へ、自らをシフトチェンジさせた。

彼の習得技術を掛け算すると 

鉄砲×そろばん×水軍×築城=大大名、藤堂高虎

○ 高虎は、築城の名人

彼の作る城は、効率化、コスパ重視の城だ。そして天守閣を立てる際にも発明をしている。

層塔型天守閣の発明

タワー型の天守閣で、四角い箱を積み上げたシンプルなもの。

⇆ 対照的なのは、熊本城。加藤清正しか築城できないようなこだわりの多い城。いわば注文住宅

根底には、城を作るのには「より早く、より安く」を考え、規格化を行うことで、建売住宅のような効率的な城を造った。石垣についても、30メートルの高石垣で、ビル約10階分の石垣を積むことで、石垣を近付く敵の戦意を挫き、石垣自体に敵が近づかないよう考え設計を行った。

宇和島城・今治城・篠山城・津城・伊賀上野城・膳所城・二条城など、ほか20以上の築城

まとめ

この高虎の生き方は、現代にも通じるものがある。大企業や国の思想、仕組みはどんどん古びて、新しい時代へと変化している。

その中で、一つの会社組織で一生身を投じるのは、あまりにもリスクになる。高虎のような、より良く自分を評価し、成長させてくれる上司や組織に出会うためにも、主君を変えることは、現代を生き抜く自分達にも同じ事が言える。

人は同じ事をすることに安心感を持つ人が多いが、新しい挑戦をして、様々な知識、技術を取得し、人生のポートフォリオを組んでいく方がより充実した人生を送れると考えさせられた。

もちろん、それには失敗は付きモノだが、それを乗り越える解決策や工夫を見つけられる事こそが人生を楽しめる1番のコアな部分だとも高虎から、気付かされた。

参考動画 ↓

藤堂高虎の解説 ↓

https://youtu.be/xFZrwKxyZG8

キャリアを掛け算する考え方 ↓

https://youtu.be/BXwcR3iqSGc

https://youtu.be/ffRIzmvsxlQ

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