4.院政と平氏の台頭
後三条天皇と院政の開始
藤原頼通の娘には皇子が生まれなかったので、時の摂政・関白を外戚としない後三条天皇が即位した。すでに壮年に達し、個性の強かった天皇は、大江匡房らの学識に優れた人材を登用し、摂関家にはばかる事なく国政の改革に取り組んだ❶。
特に荘園の増加が公領を圧迫していると見た天皇は、1069(延久元)年に厳しい内容の延久の荘園整理令を出した❷。
この荘園令は、国司任せではなく、中央に記録荘園券契所(記録所)を設けて荘園の所有者から証拠類を提出させ、これと国司の報告とを合わせて審査し、年代の新しい荘園や書類不備のものなど、基準に合わない荘園を停止した。摂関家の荘園も例外ではなく、整理令はかなりの成果をあげた❸。
白河天皇も、後三条天皇の遺志を受け継いで親政を行ったが、1086(応徳3)年、にわかに幼少の堀川天皇に譲位したのち、自ら上皇(院)として院庁を開き、天皇を後見しながら政治の実権を握る院政の道を開いた❹。
上皇は、中・下級貴族の中でも、特に荘園整理の断行を歓迎する国司(受領)達を支持勢力に取り込み、院の御所に北面の武士を置いて武士団を組織するなど、院の権力を強化し、ついに白河天皇の死後には、本格的な院政を始めた。
院政は、元々自分の子孫の系統に皇位を継承させようとするところから始まったもので、白河天皇の後も、鳥羽上皇・後白河上皇と3上皇の院政が100年あまり続き、法や慣例にこだわらず、上皇が政治の実権を行使した。その下で摂関家は、勢力の衰えを院と結びつく事で盛り返そうと努めた。