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第1章 古代の世界❶
古代世界の形成
先史時代から歴史時代へと進んだ人類は、エジプト・メソポタミア・インド・中国の大河流域で高度の古代文明を開花させた。これらの地方はいずれも豊かな平野に恵まれ、その地理的条件を利用した穀物栽培によって多数の人口を養うことができたが、そのためには大規模な治水・灌漑とそれを支える共同労働とを必要としたので、そこから専制君主の統治する大国家がインドをのぞき発展した。
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四つの文明の周辺には、それらの影響を受けながらも独自の世界を築き上げた諸文明が生まれた。それらは、西方ではシリア・小アジア・ギリシア・イタリア・北アフリカの諸地域におこり、フェニキア人・
ヒッタイト人・ヘブライ人 (イスラエル人・ユダヤ人)・ギリシア人・ローマ人などによって、それぞれ特徴のある国家や文化がきずかれた。東方のインド・中国の周辺でも、東南アジア・朝鮮・日本の各地に古代国家が形成された。
古代世界の歴史は、各地域における統一的な専制国家の形成・発展とその衰退を軸に展開される。その中でギリシア人とローマ人は、一時期、自由で平等な市民たちからなる社会をうみだしたが、これもローマ帝国の後期にはオリエントや中国におけるような専制国家へとかわっていった。
1.古代オリエント世界
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メソポタミアとエジプト
メソポタミアとエジプトはユーラシア大陸の西南部とアフリカ大陸東北部とにあって、地理的にも歴史的にも互いに密接な関係を有し、ともに古代オリエント世界の中心をなした。このうちティグリス川・ユーフラテス川流域のメソポタミア(「川のあいだの地域」の意) 地方では、前3千年紀前半、それ以前すでにこの地方の南部に成立していた民族系統不明のシュメール人による都市国家のあいだに統一の気運が生じた。これらの諸都市は、相互の間で主導権の移動をかさねながら隆盛にむかい、メソポタミアで最初の高い文化を形成した。シュメール諸都市はやがて北部のセム語系遊牧民族アッカド人によって征服・統一され、さらに前2千年紀にはいると、同じくセム語系のバビロン第1王朝が成立して、メソポタミアは以後、強力な専制王朝のもとにおかれた。ハンムラビ王<前 18世紀頃>の時代がその最盛期で、王の発布したハンムラビ法典は、オリエント諸国のその後の法典編纂の模範となった。
エジプトは周囲を海と砂漠で囲まれ地理的に孤立しているため、一時期を除くと、古代を通じてメソポタミアにおけるような支配民族の交代はなかった。
ナイル川流域ではすでに前4千年紀にエジプト語系の言語を用いる人びとにより多数のノモス(小部族国家)が形成されていたが、前3000年頃、これらを統一する王国が成立し、以後前 6世紀にいたるまで、王朝の交代を繰り返しながらも、ファラオ(王)の支配が続いた。ピラミッドはその初期の古王国時代にきずかれた王墓といわれ、オリエント専制支配の象徴とされてきた。
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ハンムラビ法典
メソポタミアの都市社会では伝統的に社会正義(秩序と公正)の確立と社会的弱者の保護は欠くことのできない為政者の資質と考えられていた。このことは、ウル第3王朝以降の歴代の王たちによる一連の「法令集」編纂事業(『ウルナンム法典』、『リピト・イシュタル法典』。『ハンムラビ法典』など)によって具体化された。
1901 年スサ(イラン西南部)で発見されたハンムラビ「法典」碑は、高さ約2.25mの黒色石碑であり、頂上部には正義と裁判を司る太陽神シャマシュから権力を象徴する「棒と縄」を授けられるハンムラビ王の姿が浮きりにされている。観形文字で書かれた碑文部には、神々の任により統一支配を確立したハンムラビ王の偉功と社会正義の公正なる社会の実現をうたった前文に続き、全282条がならぶ。
その内容は裁判手続きに関連するものからはじまり、今日でいうところの刑法,民法,家族法など、都市生活に必要な規則を多岐にわたって規定した。刑法では「目には目を、歯に歯を」の諺で有名な同害復讐法と身分法の原則が採用されている。ただし、ハンムラビ法は決して個人による「血の報復」を容認するものではなく、加害者に対して国家が被害者にかわって司法権を行使し、地縁的な人間関係を基本とする都市社会の生活を維持しようとした治安法に分類されるべきであることに留意すべきである。
バビロン第 1 王朝時代のメソポタミア社会において、私的経済活動が普及し、人口が増大して個人の財産所有と運用に対する関心が高まると、国家はその多面的な対応を迫られることになった。結果、財政は個人税制の導入により維持されるようになるが、その一方で、市民間の経済格差は無秩序に広がり、社会問題化していた。この時期に集中する統一国家による法編纂事業は、この民間の経済活動や個人資産制による家族関係の変化に対応するための、あらたな社会ルールづくりを模索したものであったと考えられている。
民族移動の波
前2千年紀の初め頃、メソポタミア周辺の草原に住むインド・ヨーロッパ系の遊牧民族が移動をはじめ、これをきっかけとして西アジアではさらに大きな変動が生じることになる。なかでも小アジアに入り前17世紀に王国をたてたヒッタイトは、馬と鉄を武器に力をのばし、またカッシート・ミタンニの両民族もメソポタミアに侵入・定着してそれぞれ王国をきずいた。
同じ頃エジプトには遊牧民ヒクソスがシリアから侵入して中王国をほろぼした。
前15~前14世紀にかけて、古代オリエント世界は、ヒッタイト・ミタンニ・カッシート、それにヒクソスを追放して新王国時代にはいっていたエジプトの4国が互いに競いながら共存する繁栄期をむかえた。しかし、前1200年頃になると、東地中海地方に新たに民族移動がおこり、そのためにヒッタイトは滅び、エジプトも衰えた。そして、大国の衰退に乗じてセム語系の諸民族がシリアを中心に活躍をはじめた。アラム人・フェニキア人・ヘブライ人などがそれである。フェニキア人は北シリア沿岸にシドン・ティルスなどの都市をつくって地中海貿易に活躍し、アラム人はダマスクスを中心に陸上貿易に力をふるった。フェニキア人もアラム人も商業活動の必要から表音文字を考案し、その後の諸民族のあいだにおける文字の創造と伝播の源となった。特にフェニキア文字はヨーロッパ系言語のアルファベットの起源となった。
少年王ツタンカーメン
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イギリス人考古学者カーターが 1922年、テーベ(現ルクソール) 西郊にある王家の谷で発見した少年王ツタンカーメン(わずか9歳で即位し、18歳で天折した)の王墓は、ミイラにかぶせられていた黄金のマスクや純金製のなど多くの遺品がほぼ完全な形で発見され、盗掘の形跡がない点,画期的であった。その後、スポンサーのカーナヴォン卿が墓の公開直後に急死したり、発掘関係者がつぎつぎと不遇な死をむかえたことから「ファラオの呪い」という伝説が広まったことも有名な出来事で、ツタンカーメンの名前を世界的に有名なものとした。
ただ、発掘者のハワード・カーターは天寿をまっとうしている。
ところで、この少年王は前16世紀におこったエジプト新王国の激動の時代に登場したファラオ(王)で、父であるアメンホテプ4世(イクナートン)とともに、歴代のファラオの王名表から省かれた存在であることは意外と知られていない(このことが墓が盗掘されなかった理由と推定されている)。父のアメンホテプ4世は、「異端」の王として知られ、従来のアメン神を中心とする多神教の宗教体系を否定し、首都をテーベからテル・エル・アマルナに移しつつ(換言すればテーベを拠点とする一大政治勢力の神官層の排除)、アトン神(アテン神)を唯一の最高神とする一神教を唱えた。そして新宗教を宣伝するために写実的で自然愛にもとづく新しい美術様式を提唱し(アマルナ芸術)、多くのすぐれた美術作品を誕生させた。そこでは王宮や神殿の内陣まで太陽の光が差しこむように、屋根の部分を少なくした開放的な建築が好まれ、また、彫刻では、それまでの理想化された彫刻像様式を捨てさせ、写実に徹するものがつくられた。
しかし、アメンホテプ 4 世死後(暗殺された可能性もある)、旧勢力である神官層がアメンホテプ4世の改革に強く反発して巻き返し、跡を継いだ少年王は本来の名前であるトゥト・アンク・アテン(「アテンの生き生きとした似姿」)かトウト・アンク・アメン(ツタンカーメンのこと、「アメンの似姿」)と改名し、多神教に戻しつつ,首都をメンフィス・テーベに移した。