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山姥【雪花火奇譚】



 十一月七日。N県Yヶ岳――。
 夜になっても雪は降り続いていた。
 彼女は茂みの中で震える体を抱きしめていた。本来ならば昨日のうちに、既に山頂に着いている予定だった。道を見失ったのはいつだったか。確か山道の途中で、木に書かれた赤い矢印を見た。それから見えてくるはずの次の目印はいつまで経っても見えてこなかった。入る道を間違えたのだ。けれどその恐怖さえ、今のこの状況に比べればきっとマシだ。
 いま、この茂みの中で、隠れて震えるしかない状況に比べれば――。
 ――化け物、化け物、化け物……!
 カタカタと指先が震え、茂みが僅かな音を立てる。震える体が茂みを揺らさないように、自分の体を抱きしめる。寒さでもはや指先には感覚が無く、唇が震える。茂みのなかでは生き残っている虫がいるのか、小さな羽音が耳をかすめた。こんなに寒いのに。何かが足に這い上ってくるような気さえする。どこまでが幻覚かわからない。空気が淀んでいる気がする。
 あの化け物も幻覚であればいいのに。でも、あの化け物が行ってしまうまではどうしようもできなかった。荷物も全部置いてきてしまった。ここから山を降りて、誰かに助けを求めるしかない。
 茂みの向こうから、足音がする。
 茂みをかき分け、山道を踏み荒らす音だ。自分を探している音だ。
 巨大な鉈のようなものを振り回し、空気を切り裂く音がする。茂みの奥を探しているのだ。あの不気味な息づかいがする。彼女は息を潜めた。できるだけ温かな息を吐いたりしないように、膝の間に向けて息をした。夜だからきっと大丈夫だ。白い吐息になって空中に浮かぶことはきっと無い。
 ――だれか。だれか、助けて……!
 いつの間にか茂みの向こうは静かになっていた。息を潜め、気配が無いかどうかを確認する。そろそろと重なった葉を少しだけ指でこじ開ける。暗い。何もいない。自分の心臓の音だけが耳に残る。いまにも爆発してしまいそうだ。ようやく降りられるかもしれない。わずかな希望の光に、彼女は息を吐いた。茂みから顔を遠ざけて、彼女は振り返った。
 巨大な鉈が、月の光を反射していた。悲鳴さえあげる暇もなく、その首が地面に転がった。


 十一月二十一日のニュースは、事故のニュースから始まった。
「……発見された68歳の男性は心肺停止の状態で、山頂付近より滑落したとみられています。このところの登山ブームにより各地で遭難事故や通報が相次いでおり、警察は注意を呼びかけています。また、N県のYヶ岳では現在までに事故や体調不良などを含めた通報が相次いでおり、そのうちの9件はいまだ見つかっていないということです。これから山は冬期に入ることから、冬用の装備を整えるなど……」

 奥田陽子はテレビを消し、既に暗くなってきた窓の外を見た。
 N県Yヶ岳――陽子の住むコテージもそこにあった。つまり陽子がいまいる場所が、まさにその現場だ。現場といっても山頂ではなく、裾野に広がる観光地にほど近い森林地帯にある。これから、という言葉とは裏腹に、既に冬の気配はすぐそこまで訪れていた。特に今日はそうだ。近年の平均気温の上昇をまるで無視するように、気配どころか窓の外は吹雪だ。ここも山頂と同じように、やがて冬に閉ざされてしまうだろう。
 コテージは場所はともかく、六人あるいは大人数用にできているのでかなり広い。内部は他とあまり変わらないが、正面入り口から入ってすぐに、左手に二階へ続く階段があり、右手側にはリビング・ダイニングが広がっている。対面式のキッチンも奥に繋がっているため、かなり広い作りだ。リビングは陽子がこのコテージを手に入れたときから変わっていない。偽物だが暖炉があり、中央には大きな樹を削って作られた木造のテーブルがある。いかにも山のコテージといった雰囲気で訪問客からは評判が良い。階段をすり抜けて奥に曲がると、トイレや風呂、そしてサウナがある。地下室は石造りの保管庫になっていて使い勝手がいいものの、さすがに客に不用心に立ち入ってほしくなかったため、階段は鍵をかけて閉じていた。
 二階には部屋が四つとバスルームがひとつ。いまはすべて来客用にしている。家としては申し分ないだろう。そこに陽子は一人で住んでいた。こんなコテージに女一人で、と思われることもあったが、反面、訪問客にとっては救いの館にも見えた。なにしろここにやってくるのは道に迷った登山客ばかりなのだから。街中はまだ少し温かい日もあるからと軽く見た人々が、寒さや降り積もる雪で登山を断念するのだ。そして時に、この森林地帯で道を見失う。時折、カフェや何かの店かと思って尋ねてくる人々もいたが、たいていは道に迷って絶望のまま彷徨っていた人々を介抱することになった。陽子は彼らを歓迎した。中には変な気を起こす連中もいないとは限らない。しかし彼らは基本的に助けを求めていた。それどころではなかったのだ。
 ――それにしても、今年は雪が多いな。
 陽子は窓の外に目をやった。窓は曇って景色が見えず、暗い色が見えるばかりだった。カーテンは少しだけ開けておく。こうしておくと迷い人たちの希望の光になるらしい。これも一種の親切心だ。
 彼女がここに住まいを移して半年になる。そのあいだ、特にこれといった不便は無かった。街中に降りることも一度は考えたが、彼女は生来の性分もあり、山に近いところを好んだ。それでもきちんと生活は成り立っている。これも現代文明のおかげだ。
 リモコンを置いて振り返ったところで、ベルの音が響いた。どうやらだれかがやってきたようだ。荷物を頼んだ記憶はない。彼女はキッチンへと足を向け、壁のインターホンを覗き込んだ。
 インターホンの画面では、人間が二人。男女二人が立っていた。
 男の方がベルを鳴らしている。
「すんませーん、誰かいませんか!」
 くぐもった声はわずかに外から聞こえていた。少し西の方の訛りが入ったような声だ。二人ともダウンジャケットを着てはいるがやや軽装で、これから冬の登山をするという恰好には見えなかった。陽子は目を瞬かせる。
「すんませーん!」
 男はベルから目を離すと、今度はドアを叩きはじめた。
「はい、はいはい、いま開けます!」
 陽子はじっくりと二人を見たあとに、いかにも慌てたような声をあげた。
 どうやら、件の迷い人がやってきたようだった。
 玄関先へと向かい、ドアノブに手を掛ける。相手は男女の二人だった。ひとまずは大丈夫だろう。ドアを開けると、冷たい空気が流れ込んできた。
「ああ! 良かった。人がおって!」
 男は人好きのする笑顔をした。声は目の前で聞くとよけいにはっきりと、西の方の訛りがあるのがわかる。インターホン越しでも若い男だと思ったが、思った以上だ。せいぜい高校生だろう。黒のボサボサの髪で、黒目が小さいのか三白眼だ。灰色で少し年季の入ったダウンジャケットを着ている。その他はいかにもごく普通の日本人。少し笑う顔は屈託がない。
「すんません、突然」
「ああ、いえ。どうされました?」
 とはいえ、向こうだってもしかしたら二十代くらいの女が出てくるとは思わなかっただろう。
「オレら、このあたりで迷っちまって。ここ、なんかの店かと思ったんやけど……、もしかして違った?」
「店ではないけど、それは大変だわね」と陽子は続けた。「どうぞ、あがって。寒いでしょう」
 そう言うと、男は驚いたように三白眼を瞬かせる。
「ええんですか?」
「もちろん。外は寒くなるでしょうから。それに、あなたたちみたいな人はよく居るの。こっちはもう慣れっこなのよ」
 あまりにトントン拍子に話が進んだせいだろうか。男は少し戸惑ったようだった。
「えっと……じゃあ、ええか?」
 男は後ろにいた女へと目線を向けた。女の方は静かに頷いた。
 女の方もまた、高校生くらいに見えたが――陽子は思わずどきりとした。
 胸元まである黒髪はしっとりと流れ、長いまつげに薄茶色の目は切れ長で涼しげだ。薄い唇も、通った鼻筋もシャープな印象を持たせるが、なにより、なにより――その若さを引き立たせる、柔らかな白い肌。この雪の下だからか、余計に引き立って見える。
 同性であってもこれほど心騒ぐような人間を見たことがない。ミステリアスな美少女といえばそれまでだが、あまりに人間離れしたようにさえ見えた。薄い青色のダウンジャケットでさえ、隠しきれない何かがある。
 なんて僥倖だろう!
 陽子は目を見開いて、湧き起こってくるものを抑え込んだ。
「それじゃ、お邪魔しまーす」
 男が声をあげて中に入る。
「お邪魔します」
 逆に彼女は訛りの無い、冷たい鈴のような声をあげた。声さえもが、透き通るようだ。
 陽子に少しだけ頭を下げたあと、男に続いて部屋の中へと入った。


 部屋に通すと、陽子は暖房のスイッチを入れた。
「ごめんなさいね、いますぐ温かくなるから。好きなところに座ってて」
「いや、ほんますんません……」
 二人が荷物を下ろすのをちらりと見てから、キッチンに入る。
「紅茶でいいかしら?」
「おかまいなく!」
 しかし陽子はお湯を沸かして、常備してあった紅茶を手にした。
 室内に通した二人は、やはり高校生くらいにしか見えなかった。だが、高校生がたった二人でこんなところに来ているとも考えにくい。二人だけではぐれたというのも妙だ。それに、帽子やマフラーを脱ぎ捨て、ダウンジャケットを脱いだ下は普通の服装だった。最近は軽装で弾丸登山を行う外国人がいるという話だったが、まさかこの二人もそうなのか。それに女の方は、胸まである長い黒髪を下ろしているし、白いスカートだ。これじゃあせいぜい観光か、キャンプでもギリギリだろう。
 砂糖とミルクをつけて、陽子は居間に持っていった。
 二人用のソファの端と端で、男は猫背気味に、そして女は背を伸ばして座っている。
「変なものは入れてないからね」
 そう断りを入れると、男は微妙に困ったような笑みを浮かべて礼を言った。
「それにしても、二人とも若そうね。高校生?」
「オレら、これでも大学生なんすよ。なあ?」
 彼は慌てたように氷華に同意を求める。
「そういえば自己紹介してませんね。オレがヒナタ。日向夏樹です。こっちが神宮寺」
「……神宮寺氷華です」
 氷華がぺこりと頭を下げた。
 しかしここまでわかりやすく声のトーンや訛りが違うと、確かに大学生なのだろう。どちらもそうは見えないが、まだ一年生かもしれない。最近は大人びた子供や、逆に若く見られる大人もいるが、さすがにそこまで年齢不詳ではない。
「学生さんだったのね。私は奥田陽子よ。よろしく」
 にこりと笑ったが、氷華は表情をぴくりとも変えなかった。
「ところで、お二人はどうしてここに?」
 陽子はどちらともなく見た。
 氷華と目が合ったが、彼女はちらりと夏樹を見ただけだった。
「実は、授業のフィールドワークで来たんすよ。オレら、このあたりの植生とか調べとって。あんまり奥に入る予定は無かったんやけど……。いつの間にか迷っちまってて」
「あら、それじゃあ山に登る予定はなかったの?」
「そうなんすよ! それがいつの間にか奥まで入っとって。気付いたら雪まで降ってくるし……」
「勉強熱心なのはいいことね」
 しかし、彼らの軽装については納得がいった。
 元々はこれほど奥に入るつもりもなかったのなら、装備がなくて当たり前だろう。彼女がスカートなのも、当初はここまで奥に入るつもりもなかったのだろう。いったいどうしてそんなことになったのか――迷い人にそれを尋ねたとしても、決定的な出来事がわからない場合もある。
 夏樹は紅茶に手をかけ、少しだけ苦笑して啜った。
「そうですね。あなたが道を外さなければこんな思いはするはずなかったですね」
「えっ!? お、オレ!?」
「……」
「あっ、ハイ。オレな……」
 つんとした表情の彼女に、夏樹は適わないといったように頭を搔く。
「なるほどね」
 陽子は少しだけ苦笑した。彼女が不機嫌なのも理解出来る気がする。
「まあ、オレの趣味で、このへんの伝承とかも調べとったんで……」
「伝承? あったかしらそんなの」
「伝承っつうか……、そういえば、お姉さんは聞いたことあります?」
 夏樹は囁くように声をひそめた。
「このあたりで化け物が出るって噂」
「……化け物?」
 不意に、空気が張り詰める。
「この山での遭難の何件かは、化け物に食われた――みたいな噂があるんすよ」
 氷華が少しだけ顔をあげ、陽子を見た。


「最近、この山で遭難が多いでしょう? そのせいで化け物がおるって噂になっとって。化け物が山にいて、食い殺されるっちゅうんです。いまの時代で化け物なんて、そうそう信じられんけど……」
 陽子は少しだけ困ったように目を瞬かせた。
「それでもしかして、地元の伝承に似たようなのがあるんやないかって思って。でも、これがさっぱり。お姉さん、ここに住んでる現地の人なら知っとるかなって」
「ううん、私はそういうのは聞いたことは無いわねぇ」
「あ、もちろん! 実際の被害は、クマとかの可能性の方が高ェかなって思っとるんすよ。ほら、最近は冬眠せずにウロウロしとる個体もいるっていうし」
 夏樹はそこまで言ってから、慌てたように付け足した。
「あっ、いや、ここに住んでる方に言う話じゃなかったすよね。そういやあ、お姉さんはどうしてここに?」
 空気を変えるように言う彼に、陽子は頷いた。
「私は自然が好きなの。実は半年くらい前に移り住んだばっかりでね、私だと力になれないかも」
「そうやったんですか」
「でも、たまに迷い込んだ人達が来るから退屈はしないわ。場合によっては携帯電話も無くしちゃってることがあるから、結構重宝されてるのよ」
 それは事実だ。
「そういえば、慣れっこだって言ってましたね。やっぱり、夏の装備で来たとかハイキングの途中で道を外した……とか、多いんすか?」
「そうね。山を甘く見ている人もいるし、道を間違えて……とかもよくあるわ。このコテージに来て安心してるのを見ると、私もここにいて良かったと思うの」
 陽子はそこでちらりと氷華のほうを見た。
 彼女は出された紅茶にひとくちも手をつけていなかった。なにか警戒しているのかと思ってしまう。どうぞ、とでも言うべきか。陽子の視線に気がついたのか、ようやく氷華は顔をあげた。
「すみません。……実は猫舌なもので」
 氷華は少しだけ口元に手をやった。
「……ぬるいのしか飲めん体質なんよな、氷華」
「はい」
 同性だからこそとっつきにくいタイプかと思っていたが、意外にそうでもないらしい。不機嫌なのもあったのだろう。陽子は少しだけ笑った。
「そうだったのね! ごめんなさい、いま氷が無いから作っておくわ」
「いえ、そこまでは……。ぬるくなれば飲めますし」
 立ち上がってキッチンへと踵を返す。
「そんなに遠慮しないで。そうだ、二人とも。夕食も食べていくといいわ。冷凍食品しかないけど」
「えっ、ほんまですか!?」
 氷華がちらりと夏樹を見て、呆れたような目をした。
 少しは遠慮しろというように、紅茶を置くためにソファから離れた背を思い切り叩いた。
「あいった!」
 じろりと見ている彼女を見て目を丸くする。
「な、なんやねんいきなり!?」
「べつに」
 つんとした表情で目を逸らす。
「仲がいいのね」
「いやあ、それほどでも……」
「いえ、ぜんぜん」
 断言した氷華を、夏樹が相変わらず信じられない目で見ていた。
「ええ。とにかく今日はもう遅いし、また夜には吹雪いてくるだろうから。今日はこのコテージに泊まった方がいいわ」
 陽子はそう言うとキッチンへと足を運んだ。
 二人は恐縮しきっていた。悪そうな二人ではないと感じる。警戒心はすっかり無くなったことだろう。冷凍庫から固まりかけた冷凍食品を取りだす。食事になりそうなものをいくつかピックアップして、取り出した。ずっと取り出していなかったから、すっかり氷が貼り付いて白くなっていた。数も少なくなっている。いちどどこかに買い出しに行ったほうがいいかもしれない。
 レンジで冷凍食品を温めているあいだに、製氷機の給水タンクに水を入れておくことにした。使っていないせいかどこにあるのか手間取ったが、一番上の大きな扉を開けると、タンクが隅に入っているのを見つけた。
 食事は和やかにはじまった。さすがに少し味気ないかとも思ったが、夏樹のほうは美味しそうに食べていた。充分すぎるほどだったらしい。氷華からも文句は出なかった。
 陽子は安心して席を外して二階へと向かった。左右にあるドアのうち、手前にある二つを選んで中を確認する。ベッドも布団も問題なく揃っている。奥の部屋はこのあいだ、布団をひとつダメにしてしまったのだ。陽子は他に何も落ちていないことを確認して、「使用中」のドアプレートをかけた。
 そろそろ食べ終わったところだろうと、下に降りていく。
 ソファの背中から見えたのは、氷華だけだった。思わずどきりとする。二階に来てはいない。きっとトイレだろう。陽子は戸惑いを隠して、氷華に話しかけた。
「どう、お口にあったかしら。冷凍食品だったけれど」
 テーブルに置かれたトレイの中身はすべて食べきってあった。
「はい。充分です。ありがとうございます」
「日向君はどこへ?」
「トイレに行きましたよ。そのへんにいるのでは」
 氷華はなんということもなく答える。
「あら、そう?」
 陽子はその場を離れて、廊下の奥へと目を向けた。さすがにこの構造で迷うことはないだろう。足音を立てながら廊下を曲がり、その向こうを見た。
 ぎくりとする。
 廊下の先に突っ立っていたのはまちがいなく夏樹だった。
 トイレからは水の流れる音がしていない。目線はドアのひとつに向けられている。
「……何をしてるの?」
「ああ、結構でかいコテージだなと思って。部屋もいっぱいあるんすね。こことか、なんの部屋だろうと思って」
「そこは地下室よ。片付けてないし、電気のスイッチが壊れちゃって。あんまりお客様には立ち入ってほしくないかな」
「そりゃすんません。でもこんなところに一人で住んどって、大丈夫なんですか」
「意外と大丈夫なものよ。ほら、それよりも早く温かい方に来るといいわ。食後のお酒は大丈夫?」
 夏樹は困ったような顔をした。
 どうやら二人とも未成年なのは本当らしい。
「それじゃあ、コーヒーはどう? インスタントだけど」
「そんな気を遣ってもらわんでも」
「いいのよ、久々に若い人たちが来て嬉しいの」
「……それじゃ、お言葉に甘えて」
 陽子はキッチンへと立ち、お湯を沸かしてインスタントコーヒーをカップに入れる。二人からは死角になっている位置だ。陽子はコーヒーミルクと一緒に、棚から見慣れた小瓶を取り出した。中身の粉をほんの少しだけ濡らしたマドラーに擦り付けて、ミルクと一緒にして混ぜた。手っ取り早く小瓶をしまい込み、棚の中に入れる。
「そうだ、奥田さん」
 陽子はびくりとした。棚を勢いよく閉めながら振り返る。
 気付くとキッチンの入り口に氷華が立っていた。
「私のは氷をひとつかふたつ入れてもらえると……」
「あ、ああ。そうだったわね」
 猫舌の彼女のために、冷蔵庫の製氷室を開ける。幸いにも氷は既に出来ている。奥の方でぽつんと転がっている氷をコーヒーの中に落とした。
「ごめんなさい、いつもの癖でミルクを入れちゃった。二人とも、大丈夫?」
 コーヒーを運びがてら、陽子は笑った。


「眠くなったら二階の部屋を使ってね。さっき確認してきたの。手前の部屋をふたつ用意しておいたから、そこを使って。部屋の入り口にプレートが置いてあるから、わかるはずよ」
「なにからなにまで、ほんとすんません……」
 申し訳なさそうな夏樹の横で、氷華が頭を下げた。
「私は下で仕事してるから、なにかあったら言ってね」
 二人はそれからすぐに二階へあがることにしていた。荷物を持って、陽子に頭を下げてから二階へと引っ込んでいく。
 陽子は外の様子をのぞき見た。
 夜になってから雪は酷くなってきていた。あの二人もこのままでは山を下りられないだろう。
 明かりを消し、万が一のことがあってもいいようにする。そうして物置部屋を開けると、中のほうに隠してあった鉈を手にした。そろそろ眠剤が効いてきたはずだ。もし片方で物音がしたとしても、もう片方はびくともしないだろう。
 二階に続く階段を見る。二階で誰かが動く気配はしなかった。ゆっくりと階段を登る。一段、二段、三段。この瞬間がいちばん高揚する。それにあの二人は若い。このところ山に登るようなのは六十代以上の老人が多かった。それが今日は、なんと十代の若そうな男と――なにより、柔らかそうな女がいる!
 最初に見たときからそうだった。
 あんな柔らかそうで、美しいものにかぶりつくことができるなんて――なんて僥倖だろう!
 男の方にも少しは筋肉がありそうだったが、あの女は別格だ。これほどまで食欲をそそられたのも久々だ。
 あんなに若くて、珠のような肌にかぶりつけるなんて、いったいどれほどぶりだろう。
 獲物として申し分ない。食事としては極上だ。
 女のほうを先に始末してしまおうか、それとも後にとっておくべきか。いや、この際もはやどちらでもいい。二人も一気に転がり込んできたからには。
 陽子は二つある扉を見て、どちらがどちらに入っているのかを考えた。しかしそれを考えたのは一瞬のことで、すぐさま右側を選んだ。荷物は男のものだった。前菜にはちょうどいい。ベッドが膨らんでいるのが見える。ひた、ひた、とゆっくりと近づく。こいつは先に始末してしまえばいい。悲鳴さえあげなければいいのだ。夏樹が、布団を絡めるようにして眠っているのが見えた。おあつらえ向きの姿勢だ。またベッドをひとつダメにしてしまうが、些細なことだ。
 陽子は手にした鉈をゆっくりと振り上げた。陽子の口元が耳まで裂けるように笑い、勢いよくベッドの膨らみめがけて振り下ろす。
 宴の始まりだ。
 布団が僅かな物音と血をおさえながら、真っ二つになった。更にもう一度叩きつける。血と布団の綿があたりに飛び散った。目を覚まさぬまま、夏樹は肉塊となる。
 真っ赤なスープを前菜にしようと顔を近づける。
 鉈を引き上げようとして、背後から突如強烈な炎が投げつけられた。
「ぎゃっ!」
 思わず悲鳴をあげる。熱い。
 ただの炎ではない。炎は陽子にまとわりつき、抗えない痛みを与えてきた。陽子は身をよじり、必死になってその炎を振り払った。その間に指先の爪が鋭く伸び、髪は老婆のように艶を失い、白髪が交じって灰色になった。ミチミチとこめかみが皮膚の下から盛り上がり、牛のような角が生える。骨格が盛り上がり、服を裂く。上着など不要だった。片手で引きちぎって床に捨て去ると、忌々しい炎がようやく消え去った。
「なんだ、これは……!?」
 陽子の声は枯れかけ、老婆のようだ。
 まさしく老婆そのものだった。
「正体現したな――」
 低く響く関西弁が、部屋の入り口からした。
 突き出した片手には札があり、燃えさかる炎の残滓を宿している。それが暗い部屋を照らし出していた。さっきの炎と同じだ。
「なぜそこに……」
 呟いてから陽子はハッとして布団を見た。膨らんだベッドには護符が貼られていて、鉈で真っ二つになったそれがひとりでに燃えた。布団に燃え跡さえ残さず消えていく。
 ――幻影……!?
 燃えた跡に見えたのは、人の姿ではなかった。丸められた毛布がそう見えていただけだ。
「おまえ……、おまえらさては、退魔師か!」
「せや。そっちから正体現してくれて、色んな手間が省けたわ」
 その後ろから、ひょこりと氷華が顔を出した。
「私はただの助手なんですが」
 二人とも意識ははっきりしていた。
「なぜだ。なぜ眠っていない……!?」
「やっぱり何か仕込んどったんか」
「護符のおかげで意識はだいぶハッキリしていますね。ちょっと落ち着かないですが」
「取るなよ。眠剤の効果が出てくるかもしれん」
 氷華は見るからに嫌な顔をした。
「くそがっ、ぜんぶ最初から!」
「おう、わかっとったぞ」
 夏樹は懐から折りたたまれた紙を取り出すと、広げていく。
「現代にだいぶ迎合しとる様やけど、今どき電波なんて、ほぼどこでも通じる。行方不明になった奴らの携帯電話もそうや」
 地図だった。
 印がいくつもつけられているが、そのすべてがコテージ周辺か、コテージそのものに集中している。
「位置情報くらいわかる。ところがそれを調べたら、不思議なことにほとんどがこのコテージの周辺で途絶えとる。山の中腹や頂上ならともかくな。人が住んどる場所やのに、ことごとく登山客がこのあたりで人が消えとるからな。そりゃおかしいやろ。しかも、住んどるのは普通の姉ちゃんやし。そこまで来て帰ってこんなんてことがあるかい」
 目線を外さぬまま、紙を畳んでポケットにしまいこむ。
「おまけにこのあたりはお前の妖気に当てられて瘴気まで発生しとるしな。……それで退魔師協会にもお鉢が回って来たってこと」
 指を再びポケットから出したときには、長方形の和紙を手にしていた。
「まさかここまで食いついてくるとは思わんかったけどな。で……だ」
 指に挟んだそれを軽く振ると、重なった和紙がずれて三枚になった。
「ここで行方不明になった人ら……、いったいどうしたんか、聞いても?」
「ひ、ひひっ。いまから知る事になるよ!」
 その直後、鉈が勢いよく回転しながら夏樹の頭に飛んだ。
「おわっ!」
 慌てて身を伏せると、いままで頭があった場所の壁に鉈が突き刺さった。
 その次の瞬間には老婆の顔がすぐ近くにあった。巨大な口が開かれ、鉄のような牙が迫っている。
「ぐ……っ」
 このままでは符が使えない。
 部屋の入り口から壁沿いに移動すると、ちらりとベッド脇にあるテーブルランプを見た。柄をつかむがいなや、勢いよく振り回し、老婆の顔面にぶち当てた。だが老婆は怯まず、ランプを口で受け止めて振り回した。夏樹はそのままランプに引きずられる恰好になる。
 ――くそっ!
 このタイプに肉弾戦は無理か、と悟る。
 ランプを自分から手放し、ベッドの上で転がりながら受け身をとると、窓際へ落ちる。
 その隙に、老婆が鉈を引き抜いて投げつけてきた。なんとか横に転がると、首のすぐ横に鉈が突き刺さった。そのすぐ後ろから、別の部屋のテーブルランプを持ってきた氷華が勢いよく振りかぶった。ごちん、と老婆の頭に振り下ろす。だが、まったく効いていなかった。はっとした顔で氷華は後ろへ下がる。
「あんたはご馳走だね」
 にやにやとした顔が言った。
 氷華はそろそろと階段の方へ下がりながら、テーブルランプを振り回した。老婆の鋭い爪がランプの布を引き裂くと、氷華はランプを投げつけた。急いで一階へ向かう。笑い声がその後ろ姿へと向けられる。
 夏樹は飛び起きると、鉈をそのままにして老婆に飛びつこうとした。
 だが部屋から飛び出そうとした途端、バキンという凄まじい音が響いたかと思うと、目の前に何か大きくて平たい板のようなものが投げつけられた。ぎょっとして顔だけは腕で防御したものの、強かに打ち付けられる。勢いで板の下敷きになり、小さく呻く。
 よく見れば、飛んできたのは破壊された扉だった。なんとか扉の下から這い出ると、廊下を挟んだ向こう側の扉が無くなっている。笑い声が一階から響いてくる。
「くっ……そ、氷華ぁ!」
 氷華が一階へ行ったのはこっちの時間稼ぎだと気付いていた。重いドアをはねのけて、なんとか投げ捨てて脱出する。木くずで多少の傷はついたが、動けないほどではない。下からは、声と物音が二階まで響いてくる。急いで向かわなければならなかった。
 立ち上がって廊下へ出たとき、下からバタンと勢いよく玄関扉が開かれる音がした。
「外か!」
 夏樹は周囲を見回し、いましがた扉の無くなった部屋へと駆け込んだ。窓に飛びついて開けると、暗い玄関先で氷華が追い詰められているのを見た。
 急いで向かおうとして、一秒だけ立ち止まって悩んだ。
「……任せた!」
 茶色い目に赤い色が宿る。
「我が言霊により、ひととき汝の封印を解き放つ!」
 手をたたき合わせる音が、夜の山に響き渡った。


「……思ったよりも、年齢が上の方だったようですね」
 一階の玄関近くまで逃げてきた氷華は、階段を軽く飛び越えてきた老婆の姿を見てそう言った。彼女は部屋にあった椅子を掴んでいて、持ち上げようとする。勢いよく椅子を叩きつけたものの、老婆はにやにやと笑うだけだった。
「それだけかい」
「私は助手ですからねっ!」
 もうひとつあった椅子を投げつける。だが、それだけだった。
 氷華は玄関を開け放ち、勢いよく外へと飛び出した。外は暗く、吹雪いていた。後ろからは笑い声が響いた。
「外へ行けば逃げ切れるとでも思ったか!?」
 雪は既に降り積もっていた。裸足で飛び出てきたことに気付いたのは雪を踏んでからだ。あたりは茂みに囲まれていて、ここへ来たときの細い道がどこにあるのか見えなくなっている。コテージのわずかな明かり以外になにもない。月さえ無いのだ。氷華が並んだ木々を前にした途端に、上から影が落ちるのに気付いた。
「……っ」
 なんとか横に避けるが、すぐさま老婆が大きく跳躍した。
 雪の上でうまく歩けず、避けるのが精一杯だった。しかしそれも限界がある。氷華が後ろを振り向いた瞬間、かぎ爪のついた手が腕を掴んだ。いまにもかぎ爪が柔らかな腕に食い込んでくる。もう片方の手で、なんとか老婆の首に手をかける。締めようと足掻く。老婆はにやにやと笑うだけだった。見た目こそ老体であっても、その強靱な肉体は人間のそれ以上だ。
 醜悪な顔が近づく。
「……っ、近づかないで!」
 叫びは吹雪の中に消えていった。
 氷華の首めがけて顎が開かれる。歪に生えた上下の牙を、異臭のする粘着質の涎が繋げている。氷華は首を動かして避けようとし、腕を引っ張った。ぴくりともしない。
 そのとき、二階の窓が開いているのが見えた。何か叫んでいる。いや、確かに意味のある言葉だ。
 拍手の清浄な音が氷華の耳に届いた。
 ――ぱん。
 かみちぎらんとした老婆の口の中が、一気に凍り付いた。
 口の中の水分がすべて氷と化したように固まり、それ以上に氷塊が口の中に突っ込まれていた。老婆のあぎとが氷に阻まれ、その目が驚愕に見開いたのと同時に、腕が離れた。氷華は翻り、一気に距離をとった。
「……あ!?」
 雪がまとわりつくように、封印を解かれた氷華の黒い髪は白く変色し、その瞳が青く色づく。
 真っ白な振り袖に身を包み、冷たい瞳が射貫いた。
「お前――雪女かあっ!」
 老婆は氷をかみ砕きながら叫んだ。細い氷が老婆の口の中を裂き、血が口からあふれ出た。
 吹雪が天候のためではなく、彼女のために吹きすさぶ。もはや雪が彼女の歩みを邪魔することもない。
 過去、小泉八雲によって物語として書き留められ、人々からの強烈な存在承認を獲得した怪異。その代償として、同時に弱みも広まってしまった存在。人の前から姿を消さざるをえなかった雪の怪。
「なぜだ。なぜお前のようなやつが、退魔師なんかとつるんでる!?」
「あなたには関係のないことですね」
「その封印――退魔師に捕まったか! 人間の作家なんぞに暴かれた間抜けな妖異どもが! 自分の本性さえも見失ったか!」
「どうぞ、お好きなように」
 憂うような吐息がきらめき、ただでさえ冷たい空気が凍り付いていく。
 それはコテージの中にまで吹き付けると、玄関の明かりを凍らせ、氷柱が垂れ下がる。氷華を中心にして辺りは氷に覆われていく。
 老婆の足元で音がした。氷がその体を地面に縫い止めるように這い上っていく。
「はっ。こんなもの!」
 勢いよく足を引き抜き、氷が割れた。しかしその先から、なおも氷が追いすがる。自分の腕さえもが動かなくなっていくのに気付いたのは、その後だ。何度指先を動かして氷を割ろうと、その先から凍り付いていく。
「私と遊んでいていいんですか?」
 背後では、二階から飛び降りてきた夏樹がちょうど老婆を挟み撃ちにしたところだった。自分の足元に一瞬絡みついた氷を蹴飛ばして、指に挟んだ長方形の和紙を払って伸ばす。和紙に焦げた文字がひとりでに浮かび上がって護符を作った。
 少しずつ重なった和紙がずれていく。一枚。三枚。五枚。十枚。
 そこで空中に護符を並べると、更に一枚ずつ二枚に分かれた。
 払うような仕草をすると、護符が老婆の体に一気に貼り付いた。縄で縛られたように動きを止める。
「残念やけど、……人間に手ェ出した以上は、見逃せんな」
 赤い色を帯びた三白眼が、まっすぐに射貫いた。最後に作り上げた一枚を静かに投げつけた。
 ひらりと、老婆の額に落ちていく。
 護符が一斉に燃え上がり、雪を溶かさずに老婆の姿だけを焼いていく。老婆はもがいて声をあげたが、貼り付いた護符が更にきつく圧縮した。さながら、紙を貼り合わせた珠のように。叫びは吹雪に混じって消えていき、老婆の姿を内包しながらやがて檻のように小さく丸まっていく。火の珠のようにも小さな太陽のようにも見えたそれは、やがて――。
 ――ぼっ。
 大きく燃える音とともに、その場に灰だけが落ちた。そうして、一枚の護符だけがひらひらとその上に落ちた。


 夏樹は地面に落ちた護符を拾い上げた。
 これは退魔協会への提出用だ。慎重にしまい込んでおく。その頃には、風に吹かれて灰はどこかへと舞ってしまっていた。
「はー。肉弾戦はやっぱ疲れるなぁ」
「その割には楽そうじゃないですか。頭を使わなくていいからでは?」
「それってオレがバカやって言うとる?」
「さあ?」
 氷華がそしらぬ顔をしたとき、雪が溶けるように、氷華から白い色が抜けていった。髪飾りも和装も氷のように砕けて消えていき、氷華は自分の黒髪を触ってから、洋装に戻った自分の姿を見下ろした。
「戻ってしまいましたね。残念」
「そりゃ簡易的なやつやからな。緊急回避ってことで」
 それよりも、と夏樹は氷華をじろりと見る。
「お前、一瞬オレのことも凍らそうとしたやろ」
 だが、彼女はまったく悪びれない。
「バレました?」
「そらバレとるわ! 次やったら二度と限定解除もしてやらんからな!」
「いじわる」
 まるで夏樹が悪いような物言いに、言葉を失う。
「いっそ全部解いてくれてもいいんですよ」
「だからアカンって……、そ、それより! 探すもんがあるやろ!」
 夏樹はむりやり話を引き戻し、コテージの方を指さした。
「はぐらかしましたね」
 氷華はそういいながらも、コテージに向かう夏樹のあとを追った。彼が足で開拓していく雪の間を通って、中へと戻る。
 そこから、他の部屋をくまなく捜索した。
 途中でキッチンに入り込んだ夏樹は、ゴミ箱の奥で捨てられている古い睡眠薬の箱と、それらしい青い粉の入った小瓶を発見した。
「これか。やっぱり睡眠薬やった」
「でしょうね」
 氷華は肩を竦めた。
「これから食べる人間に、あまり変な薬は入れたくないでしょうからね。せいぜい睡眠薬でしょう」
「嫌な推測やな……」
 夏樹は眉間に皺を寄せた。
「気になるところといえば、あとは地下じゃないですか?」
 二人は地下室の扉の前に立ち、じっと見つめた。
「鍵がどっかにあるはずやけど。……ま、この際ええか」
 それほど複雑な鍵でもない。
 夏樹は扉の前に座り込むと、懐からピッキング用具を取り出した。
「ホントは最初から証拠を発見したかったところやけど……」
「どこで何を仕込まれるかわからなかったですからね」
「……おし、開いた」
 立ち上がり、ピッキング用具をしまいこんでからドアノブに手をかける。
 扉はなんの抵抗もなく、内側に向かって開いた。その下には地下に続く狭い空間と、まるで飲み込むかのような階段があるだけだ。階段の途中までは廊下の明かりに照らされているが、その下は真っ暗でなにも見えない。
「降りれそうやな」
「スイッチが見当たりませんね」
 天井には電球があるが、肝心のスイッチが見当たらない。
「とりあえずスイッチ探しがてら、行けるとこまで行ってみるわ。お前は懐中電灯かスマホか持ってきてもらえるか?」
「わかりました」
 氷華はうなずき、踵を返した。その姿を見送ってから、夏樹は地下室へと視線を戻す。試しに一歩、二歩と階段を下っていく。
 ――それにしても、この臭い……。
 カビ臭さに混じって、奥から何か言い様のない臭いが漂っている。
 この臭いがなんなのか、わずかに見当がつきそうだった。腕で鼻をおさえ、少しだけ眉間に皺を寄せる。壁に手をつけて電気のスイッチを探しながらも、どこか消極的になってしまっていた。この先にあるものが、もしも夏樹の予想通りだとするなら――。
 下まで降りたとき、夏樹の指先が壁から突き出たプレートと突起物に当たった。
 ――……ああ。
 たぶんこれがスイッチだ。意を決して押す。
 ブンッと小さな音がして、地下室が暗く照らされた。
「うっ……」
 夏樹は思わず声をあげた。眉間に皺を寄せる。予想通りの光景だとしても、実際に見るのとは違う。それ以上先に進むのはしばし憚られた。
「夏樹さん。懐中電灯が……、どうしました?」
「降りてこん方がええ……」
 暗い明かりに照らされていたのは、ここで殺された無残な犠牲者たちの屍だった。
 既に骨になっているものや、いまだ肉がくっついているものが混在して散乱している。石造りの中央には、何度も流れて乾いて黒く変色した血の跡がついていた。食べかけのまま無造作に投げつけられた肉は腐りかけて壁にべったりと貼り付き、あるいは砕けた骨にはかじられた痕跡がはっきりと残っている。六人どころではない。ところどころ破れた服の残骸が残り、それがかつて生きた人間であったことを伝えていた。
 そこに混じって、服の残骸の多くが荷物と一緒に捨てられていた。リュックサックがそのまま残り、ストックや割れたサングラス。割れた携帯電話も一緒に落ちている。彼らの生きた証も、すべてここに集約されていたのだった。

 *

 彼らはクマに襲われたということになった。
 人間の味を覚えたクマが一頭いて、死体がいくつか見つかったのだということに。聞く者が聞けば変だと気付くだろう。しかしこの状況でそれ以外のカバーストーリーが誰も思い浮かばなかった。何人もの人間を殺した姿無き殺人グマに責任を覆い被せ、多くの目を欺いた。姿無きクマは地元の猟師によって退治されたことになり、その代わりに見つかった骨や荷物は遺族のところに戻ることになった。
 山の入り口に設置された献花台は、お供えのジュースや菓子と一緒に埋まりつつあった。
 二人はそれぞれ花を添えると、夏樹は深く頭を下げて手を合わせ、氷華は少しだけ頭を下げてから手を合わせた。
 氷華が先に目を開けて隣を見る。夏樹が頭をあげて、氷華を見下ろした。
「行きますか」
「ああ」
 二人は目立たないようにそっと立ち去ると、人々の中に消えていった。


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