【短編】1.蜃気楼の夏
ある蒸し暑い日のこと。
まだ七月だというのに、気温は連日三十五度以上の酷暑だった。テレビでは”どこそこでは四十度を越えた”などとしきりに報道され、反面、火急の用事以外ではできるだけ家から出ぬようにと促される。
そんなものが徹底されるはずもなく、熱中症による患者数は増えていく。
加えて私の住む地域は湿気が高く、まさに蒸し風呂かサウナだ。どちらにしたってちゃんと通常の温度の場所に戻るから気持ちがいいのであって、ずっとサウナ状態に居ても不快なだけである。
これでは酷暑どころではなく地獄だ。
三十五度より上になると蝉すら鳴かないということを、大人になって初めて知った。じりじりと肌を刺す日差しのもとでは通行人もほとんどおらず、子供の声すらない。
皆どこに隠れているのだろう。
近所のコンビニからの帰り道とはいえ、せめて日傘を持ってこれば良かったと軽い後悔に苛まれる。
Tシャツに隠れない首元は、暑いのを通り越して痛みすら覚える。
全身から吹き出た汗は、湿気が高いせいで流れ落ちることなくべたべたと肌にまとわりついている。
早く帰ってクーラーの効いた室内に入りたい。
ここを曲がればもうすぐ自宅マンションが見えてくる。
足早に住宅街の角を曲がると、突然、視界がぼんやりとした。
おや、と思っているうちにくにゃりと地面が曲がり、妙な浮遊感に苛まれた。
――これは。
戻らないといけないなと思うよりも先に、体のほうが動いてしまっていた。
何しろ向こう側から来る涼やかな空気にどうしてもあらがいきれず、私のもう片足も浮遊する大地へと飛び乗った。
くるりと世界は反転し、ゆらゆらと揺らめくぼんやりとした景色になった。
――懐かしい。
どうやらいつの間にか蜃気楼の中に迷い込んでいたようだ。
そういえばテレビで、四十度近くになると大人でも蜃気楼に迷い込みやすくなるので気をつけろとも言っていたのだが、そんなことついぞ忘れていた。
湿気は蜃気楼の中には入ってこれないらしく、暑さはだいぶマシになっていた。
ここだけが夏を取り戻したかのようだ。
蜃気楼の中は何もかもひっくり返っていて、ついと下を見上げると、ゆらゆらと揺らめく地面の向こうで、火急の用事とやらにせかされた人々が汗を掻き掻き、サウナじみたところを歩いているのが見える。
思わず大変だなあとにやついてしまいそうなほどだ。
ゆらゆらと揺らめく大地をふわふわと歩き出す。
日差しは相変わらず暑いが肌が傷むほどではない。
日陰を通ると涼しげな風が流れ、じわりと噴き出す汗を冷やしてくれる。
ドームのごとき天井を流れる青い空に、ちぎれた白い雲。
耳の奥に今年はまったく聞くことのなかった蝉の声が届き始める。都会の蝉にしてはうるさくないので耳障りが良い。
これが夏だ。
こんなところに閉じ込められていたのか。
ついぞ世界から忘れてさられてしまった夏がここにはある。
私は自宅に向けていた足を公園へと向けた。
ああ、夏だ。
ようやく夏がきた。
近くの公園では、ついぞ聞かなくなった子供の声がわあわあとした。
――なんだ、みんなここにいたのか。
町から消えた子供たちがどこで遊んでいるのか理解した気がする。
しかし気をつけなければならない。
ここでふいっと蜃気楼が溶けてしまえば、我々は真っ逆さまに落ちるばかりなのだから。
――いや、しかし。
私は大木の周りを囲うベンチに腰掛けて、コンビニの袋を開いた。
それでも私は、此処でコンビニのそうめんを食うのだ。
なんという贅沢なことだろう。
子供たちの無邪気な声を聞きながら、そのまま警ら隊がやって来て帰りを促すまで、忘れられた夏を堪能することにした。