【短編】真昼の月に沈む【全5話】
第1話
五年前、自分の音色のことをこう表現されたことがある。
「アツシ。キミのピアノはまるで、何か手に入らないものを探しているようだ」
ドイツの音楽学校でそう告げた教師は、意味ありげに口角を上げた。
「どういう意味ですか?」
「例えば――そう、もう会えない過去の恋人とか、熱に浮かされた一夜の恋のようなね」
誰か、日本に残してきたんじゃないか。教師はそう言いたげだったが、篤志にはピンとくるどころかむしろ狼狽えたように苦笑するしかなかった。それほどまでに恋い焦がれた相手を残してきた記憶は無かったからだ。けれども教師の告げたその例えは、まだ若い篤志の心に暗い影を落とした。
そんな相手はいないが、ひとつだけ引っかかったものがあった。
それからの篤志の音色は、その引っかかりを取り払う事だけに専念された。ひとつだけ思い当たる節を必死になって否定しようとした。頭の片隅から追い出そうとした記憶は、自分ひとりだけでは処理しきれなかった。これが、ピアニストになるという夢が道半ばで折れるひとつの要因であったことは、間違いない。
それから五年の月日が経った。
久々に踏んだ日本の地は熱に浮かされたように蒸し暑かった。
「うわぁ、暑……」
藪を飛び回る蚊に刺されないうちに、佐野篤志は先を急いだ。緩やかな坂道は少しずつ体力を削り取り、日の光は肌を刺してくる。あたりの住宅街は昼間ということもあって静まり返っていた。この日差しのせいもあってか、セミの声すら聞こえない。照りつける太陽は、幻聴のようにじりじりという残響を刻みつけてくる。ドイツも八月は暑かったが、ここまでじゃなかった。とはいえドイツはクーラーが無い場所もあったから、その点においては日本の方がまだマシだ。篤志は汗を拭うと、シャツの首元を軽くパタパタと動かした。
「日本の夏って、こんなに暑かったっけか……」
篤志が懐かしくも苦々しい気持ちで日本に帰ってきたのは、少し前の事だ。
べつに、ピアニストの夢を完全に諦めたわけではない。だが自分の腕がどうこういう以上に、流行病によって公演が出来ずにどうにもできなかったという不運さも手伝った。活躍の場を動画サイトに移すという手もあったはずだが、篤志は舞台での公演に拘ってしまった。気がついたときには名前を売ることすらできず、収入も底をつきはじめていた。結局、日本に帰る決断をしたのはそのせいもある。実家に戻ってもいいと両親は言ったが、篤志はその前にやらなければいけない事がひとつあった。
父親の仕事の都合で、たった一年だけいた小さな町。篤志は小さなアパートを借りて、そこに移り住んだ。篤志にはここで確かめることがあったからだ。
町の様子は当時とは一変していた。記憶にあった古い小さな店はとっくに閉められて、見た事もない住宅に変わっていた。国道沿いの道は歩道が整備されて、きちんとガードレールが付けられている。藪が広がっていた駅裏の古い家は取り壊されて、広い駐車場のあるコンビニが建っている。そうかと思えば、古いコンビニは取り壊されて違う店が建っている。わかっていたことだが、当時とは町並みも変わってしまっていた。記憶から大きく様変わりした町の中で、見覚えのあるのはほんのわずかばかりだ。小学校や、その近くにあった小さなスーパー。神社は藪が消えて駐車場が出来ていたものの、場所が変わったわけではない。篤志が登っている坂道は、そんな見覚えのある景色のなかの一つでもあった。
――俺の記憶が間違ってなかったら、この先にあるはずだ。
住宅街を抜けて、高台へと向かう。
――館が、いまもまだ存在するなら……。
掬い上げるほどにおぼろげな記憶を頼りに、道を進む。
その住宅街からも少しずつ離れ、高台が見えてくると、篤志は少しだけ呆然とした。
「あった……」
思わずそう口にしていたほどに。
町並みとは一線を画した、白いレンガ造りの二階建ての大きな館。館を囲む庭は茂みで覆われていて、血のように真っ赤なバラが咲いている。なにもかもあの頃のままだった。ほとんどが変わり果ててしまった町の中で、ここだけが時に置き去りにされたようだった。子供の頃の記憶は正しかった。ばかみたいに口を開けたまま館を見ていると、聞き覚えのあるピアノの音が聞こえてきた。
ベートーヴェンのピアノソナタ第十四番、月光第一楽章。
どくんと心臓が高鳴った。
なにもかもが記憶通りだった。かつて小学生だった自分は、確かにここでピアノソナタの月光を聞いた。
夏の暑い日差しの中、仄暗い窓の中を想像してしまう。
――これ以上は……。
何かが自分を引き留めようとする。けれども足は、音の方に向かってしまった。目線がその先にあるものを見てしまう。茂みの向こうで、たったひとつ開かれた窓。外側に向かって開けはなたられた向こう側は、妙に暗い闇が見えた気がした。そんなところも記憶のままだ。太陽の熱が照りつける中、暗い室内からピアノの音が大きくなる。その指先が想像できるようだった。見えない指先が背中をなぞったように、ぞくぞくと体が冷えていく。仄暗い曲調はやがて待ちかねたように少しだけ明るくなる。
暗いその先に、白いアルビノの髪の毛が見えた。一人の男がそこにいた。憂いを帯びた表情で、指先が鍵盤から音を奏でる。
「……ダーシー」
苦い痛みとともに、その名前が口から出た。何もかも当時のままだ。時が止まったみたいに。
篤志がダーシーと呼んだ男の指先が、鍵盤の上を優しく叩いていく。
クラクラとするのは、日差しにあてられたからか。それとも、この音楽が古い記憶を呼び覚ましたからなのか。篤志はフラッシュバックした古い記憶の中へと誘われるように、目を閉じた。
第2話
篤志がこの町に居たのは、本当に一年だけだった。
小学校五年の秋から六年の夏にかけてだから、正確に言えば一年も居なかったかもしれない。
中途半端な期間だが、父親の転勤について行かねばならなかった。そうしてこの小さな町へとやってきたものの、篤志は微妙な気分を隠しきれなかった。子供というのはそういうのに敏感だ。最初のうちは転校生ということでいろいろ聞かれていたが、あっという間に取るに足らない何者かになってしまった。どうせ元の地域に戻るだけの関係だ。向こうも興味を無くしていたし、別にイジメというわけではなかったけれど、家にあがりこむほど親しくもならなかった。
そのうえ、ピアノを弾くこともままならなかった。篤志はピアノを続けたかったのだが、結局戻ることになるからとこっちで先生をつけてはもらえなかった。独学でやってはいたものの、それでも少しぐだついた。そうして一旦ピアノから離れてしまうと、あっという間に半年ほど経ってしまっていた。子供にとっての半年は長すぎる。
そんな頃だった。館を見つけたのは。
夏になる少し前、少し足を伸ばしたこの高台で聞こえてきたのは、ピアノの音だった。
――あ、この曲……?
いまでこそわかるその曲こそ、ピアノソナタの月光第一楽章だった。
ピアノから離れていた心が、そっと引き戻されたような気がした。ゲームやサッカーに夢中になりはじめた篤志の心を、ぐっと引きつけるような音だった。涼しげで、そこだけ夜が訪れたような音。
――誰が、弾いてるんだろう。
好奇心には勝てなかった。
庭の茂みをかきわけ、中を覗く。窓の向こうには暗闇が広がっていた。目をこらすと、そこには髪の長い誰かが、ピアノを弾いていた。家にあったような電子ピアノではなく、黒塗りのグランドピアノだった。部屋が暗いせいだろうか。鍵盤と、白く長い髪が、妙に映えた。篤志はじっとその音を聞いていた。耳ではなく脳へと流されたような気がした。
やがてぴたりと演奏が止まると、ゆっくりとあげられた顔が篤志を見た。目があった。赤い瞳だった。正直に言えば、この時にぱっと逃げてしまえば良かったのだ。けれども、篤志は好奇心と興味に駆られ、思わず口にした。
「お姉さん、ピアノ弾けるの」
「……ああ、弾けるよ」
思ったよりも低い、少年のような声が出てきて驚いた。
「あと、僕はお姉さんじゃなくてお兄さんね」
「えっ」
それほどまでに彼は美人だった。びっくりするくらいに。透き通るような白い肌に、整った顔立ち。鼻先はすらりとして、白い髪は一点の曇りもないまま長く伸ばされ、耳を隠している。年齢は二十歳前後か、二十代の前半くらいに思えたが、実際の年齢はよくわからない。とらえどころがなかった。本当に『お兄さん』なのかどうかさえ疑った。嘘をついているんじゃないかと思うくらいに。
「俺も弾けるよ」
それもあったからだろうか。
子供心に、対抗心のようなものが出てきたのだと思う。相手は子供じゃないのに、張り合うように言ってしまった。
「おや。それじゃお手並み拝見といこうか。そこは暑いだろう、中へおいで」
いまから思うと、見知らぬ大人の家に入り込むなど危険極まりない。けれどもあまりに自然に招くものだから、篤志は誘われるままに中に入り込んでしまった。
玄関から入ると、家の中は暗くひんやりとしていて涼しかった。夏のセミの声がぴたりとやんだように思えるくらいだった。中に入ると、入ってすぐのところが玄関ホールになっていた。ワインレッドの絨毯が敷かれたエントランスは、窓から光が入っているはずなのに薄暗く、まるで外界から遮断されているようだった。すぐ目の前には階段があり、左手側に向かって滑らかに続いていた。その下の空間には白い布張りのソファが二つとテーブルがあり、座れるようになっている。暖炉まであって、暖炉まであるその空間に、篤志は面食らった。モールディングされた壁は暗いチョコレート色の木材が使われていて、そのせいで余計に室内が暗く見えた。おまけに、壁につけられた蝋燭型の灯りはオレンジ色の光が放たれていて、ますます現実離れしていた。
右手側には廊下が続いていて、そこの部屋のひとつから白い髪の男が出てきた。
「本当に入って来たんだねぇ」
彼はおかしげに笑った。自分で招いたくせに、と篤志は少しだけ面食らう。
「知らない大人にはついていっちゃいけないと習わなかったかな……、ともあれちゃんと招かれてから入ってきただけ良い子だ」
物腰柔らかに、それでいて少しいたずらっぽく笑う。
「まあでも一応、知らない大人じゃなくしておこうか。僕の名前はダーシー。ダーシーと呼んでくれて構わないよ。本名は灰津・D・ダンケル」
「ダンケルなのになんでダーシーなの、変な名前だし。髪の毛も真っ白だしさ。外人さんなの?」
「半分はね。真っ白なのは、アルビノなんだよ。色素ってわかるかな。それが薄いんだ。そういう特徴だと思ってくれればいいよ」
そう言って笑う彼の目は、人外のような赤い色をしていた。
「それで、きみの名前は? 僕だって見知らぬ子供を易々と信用するほどじゃないんだよ」
「篤志。佐野篤志だよ」
どこか対等のような空気を出されると、つい名乗ってしまった。
「……ふうん。アツシ君か。それで、ピアノが弾けると言ったよね。弾いてもらおうじゃないか」
それでもダーシーはどことなく、生意気な子供を手のひらで転がすような態度を貫いた。篤志も挑戦的な態度で、ピアノの部屋へと自分から進んでやった。部屋の中は外から見た時のように暗くは思えなかった。
やっぱり半年もピアノから離れた腕は、相当落ちてしまっていた。途中でつっかえながら一曲弾ききると、ダーシーはにんまりとした笑みを浮かべていた。
「なるほど、なるほど……」
「最近弾いてなかったんだよ」
「そんなのは言い訳にもならないよ。……でも、家にピアノはあるんだろう?」
「電子のやつな。それに、こっちでは先生がついてないから。俺、次の夏が終わったら地元に帰るんだよ」
「ふふふ」
それこそ言い訳めいた篤志の言葉に、ダーシーは含み笑いをした。
「でも基本は出来てる。好きな曲はあるかい?」
ついていた先生だって好きな曲は極力弾かせてくれていた。けれどもダーシーはもっと奔放で、自由だった。
「いいかい」
ダーシーは篤志の肩を小さく叩いてから、隣で両手を鍵盤に乗せた。
指先は強く、それでいてあまりに自然に鍵盤を押した。音がする。ごく当たり前のことだ。それなのに、まるでダーシーの手つきは魔法のようだった。流れるように、篤志のそれよりも緩やかにあふれ出した。ひとつひとつの澄んだ音がリズムに乗ってひとたび湧き上がってくると、留まることを知らずに流れでた。音色はとろけるように、心の中に染みこんできた。指先は軽やかで、それでいてあざやかに動き回り、鍵盤の上をいつまでも踊っていた。
見た事がなかった。篤志はその音色に魅了されたように、いつしかピアノから目を離してダーシーを見ていた。はじめての感情だった。
第3話
それからどうやって帰ったのか覚えていない。
「おかえり。遅かったわね」
母はあまり気にしていないようだった。
「う、うん。公園で遊んできた」
本当は何をしてきたのか、言うことはできなかった。
見知らぬ大人にピアノを教わったなどと言うことはできず、かといって、あのピアノの音を忘れることはできなかった。それはいまから思えば恋心にも似ていた。あの美しくもつかみ所のない男に魅了されていたのである。
それから篤志は学校の帰りに、何度もダーシーの家に潜り込んだ。
ダーシーはそのたびに、篤志の腕前が上がったかどうかを聞きたがった。
「きみが使っていた教材はある?」
「あるけど……」
「じゃあ、それを片付けてしまおうか。戻ってから先生もびっくりするだろうよ」
「持ってこれるかな」
「一冊ずつならランドセルに隠して持って来られるんじゃないか?」
そう言うダーシーは、まるで悪戯でもするように笑うのだ。
ただの小学生と、正体も知らぬ大人。明らかに健全ではなかったと思う。しかしダーシーはそんな篤志に付き合ってくれていた。来るたびに歓迎し、もはや以前からそうであったかのようにピアノ部屋へと通すのだ。
その頃になると家のピアノにもまた向き合うようになったせいで、母にも
「そういえば篤志、最近またピアノを弾くようになったのね」
「うん。なんとなくね」
それだけ答えておいた。
「篤志ね、最近またピアノを弾くようになったのよ」
「へえ。もう帰ったらそのまま辞めちまうかと思ったけど」
「何か弾きたい曲でもできたんじゃない? 最近流行のアニメとか、あるでしょ」
両親のそんな会話を聞いた気がする。
彼らからすれば、また気まぐれにはじめたのだろうくらいしか思わなかったのだろう。
そんな両親にも、ダーシーのことは言えなかった。どういうわけか、ダーシーとの事は隠しておかなければならないと、子供心にも理解していたのだろう。知られればきっと、止められるかもしれないから。
だから篤志は注意を払って、ダーシーの館へと赴いた。ここはピアノでなくても関係無く、いつも涼しかった。クーラーも無いのに室内はいつも冷えていた。あまりに心地が良いのでぼんやりすることも多かった。あるときなど、蚊に刺された痕をかきながらぼうっとしていたことさえあった。
「ひっかくなよ」
ダーシーは苦笑しながら言った。
「え?」
「腕。さっきからぼーっとしながらひっかいてたぞ」
「あー。学校の帰りに刺されたんだよ。さっきまで平気だったんだけど、痒くって」
「気をつけなよ。かきむしると血が出ることもあるんだから」
「うへぇ、そうなのか。でも、痒いんだよなぁ」
ほとんど日常みたいな会話を繰り広げるほどに、篤志はダーシーとのやりとりに慣れてしまっていた。
ダーシーがその手を止めるように、腕をとった。
「ほら。ひっかき傷になるぞ」
そうして、腫れてしまった虫刺されの痕をまじまじと見つめた。ひっかいた部分がわずかに赤くなっている。赤い瞳が小さな痕を見つめる。湿らすように、舌先が小さく唇を舐めた。ただそれだけの行動だったのに、篤志はなぜか体が熱くなるのを感じた。ただでさえ暑いのに――この館は涼しくさえあるのに――頬が赤くなるのを隠せなかった。ダーシーはいま何を考えているんだろう、と固まってしまう。
けれども篤志が何か言う前に、ダーシーは腕を離してにこりと笑った。
「氷、持ってこようか。ついでにジュースも。何がいい?」
「……ほんと? ラムネある?」
「あるある。一本あげよう。みんなには内緒にしてくれよ」
ダーシーはにやりと笑って、キッチンがあるという方向へと歩いていった。
その何気ないやりとりが、なによりも楽しい時間だった。
ここがいちばん居心地のいい場所だった。ここにいると緩やかに時間が流れる気がした。実際のところはあっという間の出来事で、篤志は追い立てられるように夕暮れ前には帰された。
「持って帰りな」
まるで秘密の宝物のように、ダーシーはラムネについていたビー玉を洗って渡してくれた。
ビー玉なんか幾つも持っているのに、ダーシーから受け取ったそれは特別なもののように感じた。
そんな日々も、永遠には続かなかった。
最後の日はあっけなく訪れた。
まだ引っ越しの準備すらしていない頃である。ただそれでも、引っ越しの日時は決まった。そんな頃。
その日、具体的に何があったのか覚えていない。ただ、篤志はいつも通りにダーシーの元へ行き、ダーシーもいつも通りに出迎えてくれた。けえれども、帰り際にこう言われたことは覚えている。
ダーシーは妙に真剣な顔をして、篤志と視線を合わせた。
「いいかい。今日の事は秘密だ。そして、もう二度とここへ来るんじゃないよ」
彼は確かにそう言っていた。
だが……。
いったいなにが秘密だったのだろうか。
「これ以上は、きみを気に入ってしまいそうだからね」
ダーシーは意味ありげに笑いながら、篤志を送り出した。
そのとき……、そのとき何があったのだろうか。うまく思い出せない。
何か、ひどく背徳的な事だった気がする。それとも、まったく健全であるからこそ覚えていないのだろうか。しかしそれでもいったい何を秘密にされ、どうして二度と来るなと言われたのだろう。あまりに子供すぎて、篤志自身も何をされたのかわからなかったのか。それでも記憶にない。ダーシーのことをこんなに覚えているのに。最後にどうなったのかだけ、覚えていない。もしかしてよからぬことをされたのではないかと、要らぬ心配をしてしまう。だが、どうしても思い出せない。これっぽっちもだ。自分の中で封印してしまったのか、それとも本当に覚えていないのかさえも。
「どうしたの、篤志?」
母親にそう問われて、なんと言われたのだろう。
「ここに虫刺されできてるわよ」
どうでもいい事ばかり覚えているのに、ダーシーと最後に何をしたのかだけ、記憶に無い。
結局あの後、もう一度会うことなく篤志は再び故郷へと戻ることになった。それでもすぐに元の先生のところでピアノに戻ると、まったく衰えていないどころか上達していることを褒められた。きっとあの人とピアノを弾いたからだと思ったが、先生にすら言い出すことはできなかった。まるで古傷のように残るあの出会いと別れ。奇妙な後ろめたさとともにある思い出。出会ったことすら、忘れてしまおうとした。
けれどもそこには、忘れたくても忘れられない、甘美な喜びがあった気がするのだ――。
第4話
篤志がはっと目を覚ましたとき、薄暗い室内にいると気付いた。
「……あ、ここは……?」
見覚えの無い、しかしどことなく見覚えのある天井。暗い色調の家の中。天幕のついた大きなベッドの上に、篤志は横になっていた。思わず勢いよく起き上がると、クラクラと目眩がした。思わずもう一度ベッドに横になる。白いシーツが妙に映える。視界もなんだか悪い気がした。いったい何が起きたのだろう。
でも、ここの事は知らないが、それでもよく知っている。ここは、ダーシーの館の中だ。
なんとか見回すと、荷物がサイドテーブルの上に置かれていた。いったい何が起きたというのか。そのときだった。突然、なんの前触れもなくガチャリと扉が開いたかと思うと、聞き覚えのある声が飛び込んできた。
「おっ。起きてる。大丈夫かい?」
「あ……」
声は明確に耳から脳を刺激した。記憶の底を揺らし、忘れ去られた泉が再び湧き上がってくる。
「外で倒れていたから心配したよ。熱中症というやつだと思う」
アルビノの髪が、揺れた。
「やあ、久しぶり。佐野篤志君」
「……、ダーシー……」
彼はどんな年の取り方をしているのだろう。いろいろと想像したはずだった。
なんとかダーシーの顔を見ようとする。
白いシャツも、首元で結んだリボンタイもそのままだった。だけれど、まだぼんやりしている。
「まだちょっとダメそうだな。無理もないか。きみ、外でぶっ倒れてたんだぜ。熱中症ってやつだと思う」
「え……、あ」
ようやく、理解が追いついてきた。
つまり自分はあの長い坂を登ることと、館を見つけたことに安堵して、じりじりと照りつける太陽に気がつかなかったのだ。そして結果的に外で倒れ、気付いたダーシーに館の中に運び込まれた……、そんなところだろう。いったい何をやっているのかと、少しだけ恥ずかしくなる。そんな篤志の心情を知ってか知らずか、ダーシーは持ってきたトレイをサイドテーブルに置いた。からんという涼しげな音を立てる、氷の入ったコップがひとつ。そして、たっぷりと水の入った透明なジャグがひとつ。
ダーシーはジャグを手にとると、コップの中におもむろに水を注いだ。
あっという間にコップの中が水で満たされ、向こう側の風景が歪んだ。
「起き上がったら飲みなよ。ゆっくりでいい。起き上がれないのなら、容器も用意しよう」
「……す、すみません……、起きられると思います。ありがとう」
「いいんだよ」
彼はあの頃と変わらぬ口調で言った。今度はゆっくりと体を起こす。
ダーシーだ。やっぱりダーシーは実在していた。あの白い髪も、そのままだ。
コップに手をかける。ひんやりと冷たい硝子の感触がした。口元につけると、喉元を冷たい水が潤していく。美味しい。水が甘いような気さえした。なんとか水分を補給したあと、今度こそはと思って、篤志はダーシーを見上げた。十何年も経っているのだ。半分は外国人だという彼はいま、どんな姿になっているのだろう。暗い室内を、視線を巡らす。
暗い光に包まれたダーシーは、記憶と寸分違わぬ容姿で笑っていた。
ダーシーは椅子を引きずってくると、ベッドの隣に置いて座り込んだ。足を組む様子も、やや尊大に思える態度も、当時のままだ。整った顔には皺一つ無い。白い髪は相変わらずきらめいて、耳を隠すほどに長い。いまなら中性的であるとも思える容姿も、口調も、何もかも記憶のままだ。
「しかし、きみはいつからそんなに悪い子になってしまったんだ。覚えてないのかい?」
ダーシーはあの頃と変わらぬ顔で尋ねた。
「悪い子って?」
「もう二度と来ちゃいけないよと言ったのに」
悪戯っぽいその笑顔も変わらない。
「もう、子なんて年齢じゃないよ。でも本当に久しぶり、ダーシー」
「年齢なんて関係ないよ。二度と来てはいけないという年上からの言いつけを破るのに、年齢は関係無いさ」
まるで言葉を遮るように、ダーシーは少しだけ厳しい口調になった。冗談なのかそうでないのか、肩を竦めている。
「いちおう聞いておくけど、どうしてここに来たんだ?」
「それは……」
どうしてと言われると、困ってしまった。
妙に喉が渇く気がした。軽度の熱中症だったせいだろうか。篤志は手に持ったコップから水を少しだけ飲んだ。
「ダーシーが……現実ではなかったような気がして」
困った末にそう答えると、ダーシーは一瞬ぽかんとしたようだったが、次第に口角をあげて笑い出した。
「ははははっ! そうかそうか、僕がねぇ」
それでも彼は記憶の中のそのままだ。
あの日に別れたすぐあと、年月を感じさせない。錯覚を起こしそうになる。
「そんなことなら、どうせ僕が二度と来るなと言った理由だって覚えてないんだろう? だからここへ来た。違うかい?」
どきりとした。
まさか向こうの方から、核心に迫るようなことを言ってくるとは思わなかったからだ。あまりの急展開で、心の準備すら出来ていない。
「覚えていないのかい? 僕らは食事をしただけだよ」
「食事を?」
「そう。けれど、知らない大人からそもそも食べ物なんか貰っちゃいけないものだよ」
そうだっただろうか。
ラムネを貰った記憶も、小さな菓子を貰った記憶もある。
何度もそんなことを繰り返したというのに。
「あなたはもう知らない大人じゃなかっただろう」
「知らない大人だよ。例え互いに名前を知っていたとしてもね。それに、きみだって引っ越しが近かったんだ。あれ以上一緒にいたら……」
続きを促すように、篤志はダーシーを見つめた。
「……離れがたくなるだろう?」
「ダーシーもそう思ってくれていたのなら、そりゃあ嬉しいけど」
篤志は笑ったが、ダーシーは微妙な顔をしていた。
自分が思っていることと、ダーシーが考えていることは違うのだろうか。
「僕としては……、はっきり言って、きみがもう一度目の前に現れたことにも困惑しているよ」
どういう意味なのか今度こそわからないでいると、ダーシーは赤い瞳でじっと篤志を見つめた。
「まあでも、いまなら熱中症の患者を緊急に手当しただけということにもできるんだよ」
「どういう意味だ?」
「まだきみを帰してやれるってこと」
「ダーシー。何度も言ってるけど、俺はもう子供じゃないんだから。自分の友人くらいは自分で選べるよ」
ダーシーはぽんと肩に手を置いた。
「いまならまだ、戻れる」
人外のごとき秀麗な顔が近づいた。ささやくような声に、びくりと肩が跳ねる。
細い指先が、トン、と小さく肩を弾く。ピアノの鍵盤に触れるような手つきで、それでいて艶めかしい。
「すべては幼い郷愁であり、美しい思い出であったと結論付けることも」
ぴんと張り詰めた糸を、指先が弾くようだった。トン、と触れては離れる指先。
「子供のように、お尻を叩かれて追い立てられることも」
指先が肩をピアノのように跳ねるたびに、体が熱くなるようだった。手にしたままの硝子の冷たさに縋る。手の中に包み込むと、その冷たさはとっくに水玉となって硝子の表面に張り付き、指先からぽたりと滴になって落ちていく。
「まだ選べる……、今ならね」
指先とともに、ささやきが遠のいていった。ただ離れただけだというのに、ひどく遠ざかったように思えた。たったこれだけの距離が。
心臓が高鳴る。音を確かめるように鳴らされた楽器のようだった。
ぽたりと膝に落ちたのは、汗だろうか。それともぴくりとも動かない手を伝っていく水滴だろうか。
ひどく高揚した。夏の蒸し暑さに逆らうように涼しいこの館の中で、かつていったい何が起きたのだろう。思い出せない。本当に食事をしただけだったのだろうか。
「まあいいさ。少し館で休憩するくらいだったらね。僕だって、病人をおいそれと追い出すことはしない」
ダーシーはそう言うと立ち上がった。
「ラムネを飲むかい? 気分が悪い時は意外に炭酸がいいんだ。いや、熱中症の時は違ったかな……」
ぶつくさ言いながら扉に向かって歩き出し、その姿は廊下の闇の中に消えていった。
篤志は手の中のコップをテーブルに戻した。手はすっかり濡れてしまっていた。一度自分の手を見てから、自分の服で拭き取った。
――彼は、変わらないな……。
あの日の続きのようだ。
彼は相変わらずこの館に住んでいたし、ラムネなんてもう何年も飲んでいないのに変わらず好きだったように感じる。この館で目覚めた時から僅かに感じている、この疼きはなんだろう。何かが頭の中で警報を鳴らしている。それでいて、抗えないほどの疼きを感じていた。
ダーシーはすぐに戻ってきた。あの頃のように、嬉しそうにラムネを両手に持ったまま。
「まだピアノは弾いてる?」
ダーシーはぷるぷると震えながら、ラムネの瓶にビー玉を落とした。それから一気に立ち上ってくる泡に口をつけて、少し慌てたように泡を飲み干す。
「いや……、本職にしようと思ってたんだけど、諦めてドイツから戻ってきた」
篤志はといえば、まだラムネを手にしたまま開けてすらいない。
「諦めるなんてもったいない! きみのピアノは……あー、まあ、それなりだったよ」
「酷いな」
はっきりとそう言われてしまうと、笑うしかない。
「でも、まだ弾けるんだろう?」
「……ああ。まあね」
そういえばここに来た理由を少しだけ思い出す。
唯一の心残りであり、引っかかり。篤志のピアノに存在すると言われた、一夜の恋のような何か。
目の前の男に恋い焦がれていたとでもいうのだろうか。そんなバカな事があるはずがないのに。
「『月光』は弾ける? きみが弾くとどうなるか、聞いてみたい」
「俺の?」
「同じ曲でも、オーケストラの指揮者によってまったく違う曲になるみたいに……、個人の演奏もそうだからね」
「言えてる」
「体調が戻ってきたのなら、永遠に別れる前に一度くらいは聞いてみたいものだよ」
篤志はすぐには答えなかった。
ダーシーはまだ、自分を引き剥がそうとしているようだった。それでもひとまずは、ラムネを飲み干してからピアノの部屋へと移動するつもりでいた。篤志はカコンッという涼しげな音とともに、ラムネの中にビー玉を落とした。
第5話
ピアノの部屋は、あの頃のままだった。
日の光は窓の外だけにあって、室内は暗い空間が広がっている。その中にある黒塗りのピアノは、いまにも闇に沈んでしまいそうだった。懐かしげにピアノに触れる。ダーシーの白い髪も白い肌も、闇の中に浮かび上がるようだった。ピアノの蓋を開けると、白い鍵盤がたちまちに現れてくる。
篤志は椅子に座ると、少し感触を確かめるように指を乗せた。ピアノはしっかりと調律がされていた。そういえば子供の頃はダーシーとピアノ談義をしていたと思い込んでいたが、いま思うとダーシーにピアノを教えてもらっていただけだ。ずいぶんと生意気な子供だったと思う。
何度か弾いてから手を止め、最初の音に指先を乗せた。
ダーシーがいつも弾いていた曲。月光の名を持つピアノソナタが、暗い部屋に響きだした。真昼の月が、まぼろしのように立ち現れてくる。ダーシーは横で曲を聴いていた。いつも自分が弾いている曲を、他人が弾くのをどんな気持ちで聞いているのだろう。どうしてダーシーはこの曲を気に入っているのだろう。物悲しく憂いのあるような、あるいは夜闇に潜む心を癒すようなこの曲を。いつもどんな気持ちで弾いていたのだろう。
妙に長く感じた六分と少しの時間を終えると、ダーシーは静かに拍手をした。
「どうだった?」
「あの頃よりは上達したかな」
そして、相変わらずの感想を述べた。
せめてもう少しくらいは凝った事を言ってくれても良いのに。
「もっと他の曲もいろいろやったんだぜ」
「へええ。それじゃあ聞かせてみせてくれよ、その宿題を」
ダーシーはにんまりと笑ってみせた。
「いいぞ。これでもピアニストの端くれだったんだ」
そう言うと、篤志は再びピアノに向かった。
指先が、いつも以上に動く気がした。何かが吹っ切れたような気がする。やっぱりここに来て良かったと、そう思っていた。暗い部屋の中に、時に明るく、時に悠然とピアノの音が響く。
――ここにあった。やっぱり、ここにあったんだ。
日本に置いてけぼりにした忘れ物は、やはりここにあったのだ。
公演でもなく自分のためでもない、他でもないダーシーのためだけの演奏会。それはどんな公演よりも緊張したし、軽やかだった。ドイツの音楽学校で学んだどんなことよりも、自分を羽ばたかせていける気がした。
そうしてどれほどの曲を弾いただろう。
ずいぶんと長い間、続いていた気がする。
「さて、そろそろ時間じゃないか」
それでも外の光が次第にオレンジ色になりかけてくると、ダーシーは名残惜しそうに外を見た。
眩しそうに、あるいは忌避するように。
「夕暮れ時だ。子供は帰る時間だ。そしてもう、二度と来るんじゃないよ」
「ダーシー。何度も言ってるけど、俺はもう子供じゃない」
それに、まだ聞きたかった事を聞いていない。
「俺は知りたい。あの日、本当は何があったんだ。きみが俺に二度と来るなと言った日のことだ」
「……」
ダーシーは見るからに黙り込んだ。
やっぱり、何かあったのだ。
「……言ったじゃないか。食事をしただけだって」
「あんなにジュースやお菓子で釣っておいて、いまさら食事をしただけで追い出したなんて、信じられるか?」
「信じればいいんだよ。物語というのは案外あっけないものさ」
ダーシーはそこまで言ってから、少しだけ首を振ってから続けた。
「篤志。悪い子供がどうして戒められるのか、知らないはずないだろうに。……悪い大人に騙されるからさ。悪い子供は、悪い大人の餌食になってしまう」
ぐん、とその整った顔がもう一度近づいてきた。いつもピアノに向けられていた指先が、顎を小さく撫でていく。けれど、何すんだ、と振り払うことができなかった。何かが、内側からこみ上げてくる。忘れようもない感情と、抗いようのない何かを求めている。
「悪い子にならないでくれ。それを知ったら、もう戻れないんだ。僕も、きみも。二度目は無いんだ」
ダーシーも?
そう口にしてしまいたかったが、どういうわけか言葉が出ない。
「扉は開いてる。きみのやるべきことは、『介抱してくれてありがとう、見知らぬ人』と言って、申し訳なさそうに出ていくことだけだ」
「しらばっくれないでくれ」
「頼むよ。僕がきみをどれだけの思いで手放したのか、知りもしないくせに」
夕暮れはやがて沈み、夜の帳が降りようとしている。
「……やっぱりただの食事なんかじゃなかったんだな?」
「……本当に。本当に、きみは……」
室内の闇が深まった気がした。
「二度目は無いんだよ。ああ、やっぱり追い立ててやれば良かった。無理にでも追い出してやればよかったんだ。これできみは、もう二度と……」
赤い瞳の瞳孔が、縦に細くなった気がした。
「ダーシー……?」
そういえば、と思い出す。
あの日、帰ったとき。確か母に言われたのだ。
――『首筋のところ、どうしたの。赤い点みたいになって。虫刺されができてるわよ』
そんな言葉を思い出し、ふと気付いたときには、ダーシーがすぐ目の前にいた。
「夜が来る。そうなれば、もう戻ることはできない」
「構わない」
篤志はそう言っていた。
ああ、この人のことを。
「……きみが選んだことだぞ。後悔はもうできない。もう何もかも遅い」
首筋へと向けられた顎が静かに噛みついた。
伸びた牙がぷつりと肌を突き抜ける。
「あっ、くぅっ……」
思わず顔を顰める。小さな痛みだった。
その痛みも一瞬のことで、たちまちに甘い痺れに取って代わられた。蕩けるような感覚に脳がふわふわと揺らぐ。微かな熱い吐息が震え、もはやなすすべもなかった。目の前には、長くぴんと伸びた耳がある。白い髪はアルビノなんかではなかった。血が吸われるとともに内側からこみあげる多幸感。背中に添えられた手がその身を這うと、そのたびに調律されるピアノのように体が小さく跳ねた気がした。
――ああ、そうだ。そうだった。
あのときもこうして、血を吸われたのだ。崩れ落ちそうな体を、華奢な割に強い力で押しとどめられる。記憶は忘れ去られても、体は覚えていた。まだ幼いあの日にはじめて与えられた、胸が震えるようなこの悦びを。
一度だけならまだ間に合う。だけど二度目は……。
糸をひきながら、そのあぎとが離れた。
「きみはもう僕のものだ」
牙がもう一度、今度は強く首筋へと噛みつく。篤志は嬌声にも似た声をあげた。血を吸われる痛みと快感に過剰反応した体は、もはやその甘い悦楽の中に堕ちていくしかなかった。何もかもが手遅れだった。真昼の月は沈み、暗闇の中で赤い瞳が月のように輝く。脳の奥で、ピアノの音がする。その腕はもう人のためではなく、ただ一人のために捧げられることになる。ダーシーのためならそれで構わなかった。もう二度と真昼の世界には戻れなくても、それでいい。
これから何度でもこの悦びを与えられるのなら、悪くないと思った。
永遠の闇のゆりかごの中で。
了
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