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母性原理・個人・民主主義 第1章第2節 父性原理-個の倫理の社会

この論文の第1章、第2節です。
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個の倫理の社会とは、個人の欲求の充足、個人の成長というものに高い価値があることは先ほど書いた。この価値について考えることは、個の倫理で動く西洋で積極的に価値とされている「個人主義」「自由」などを考えていくことと同じになる。なぜなら、個人の欲求の充足や個人の成長というのは、個人主義の概念でもあるからだ。

個人主義の定義

個人主義のたくさんある概念のうちからもっとも基本的で、最も大切な4つの概念を、「個人主義と自由主義」の中から簡単に要約して、個人主義を定義してみたい。


①個人的、人間的存在の至高かつ内在的な価値
これは究極の道徳的原理であり、ルソーの「人間は他の人間の単に道具として奉仕するにはあまりにも高貴な存在である。」や、カントの「人間、そしてあらゆる理性的存在は、彼自身目的として存在しており、単に手段として存在しているのではない。」という言葉に代表される概念である。
②自己発展
これは自分で目的や理想を持っていて、それに向かって生きていくことであり、ヴィルヘルム・フォン・フルボルトの「人間の真の目的は、その諸能力を最高度に、かつ最も調和的に発展させて完全にして斉合的な全体にまで高めること。」という言葉に代表される。
③自己指導、自律
個人が正面から対決して、批判的評価を与えた規範を自己の下に従属させて、独立の理性的反省をして、自ら自分の実践的決定を下すことである。言い換えれば、自分で正誤を判断し、吟味し、判定する資格を持つということである。
④プライバシー
個人が公共世界の干渉から自由になれる領域を持つ権利のことである。J.S.ミルの「人間の行為の中で社会に従わなければならない部分は、他人に関係する部分においてだけである」という言葉に代表される。

この4つの概念で、個人主義の意味はだいたいつかめるだろう。これを整理すると、人間は①のような存在であるために、②と④のような権利を持っていて、そのために③のようなことができねばならない。ということになる。

また、個人主義と自由主義は、個人レベルで考えるとき、ほとんど同じ意味だと考えて差し支えないだろう。なぜならば、「個人主義と自由主義」で述べられている自由主義の主な概念というのが「人間的潜在能力の発展」「自己改善、自己実現」「道徳的自律性」と定義されていて、個人主義のそれと大部分が重なっているからである。

このように、西洋では個人一人一人にその価値を認めている。だから個人主義や、個の自由という思考が生まれたのであろう。しかし、個人に価値を認めるということは、それに耐えられる強い自我が必要になる。他人に欠点を指摘されたら、それを認める。失敗における責任は、周りに頼るのではなく、基本的には自分一人で受けるのである。(間違えないで欲しいのだが、他人の犯した失敗をも全て自分一人で受け持つということではない。)事実、スイスでは小学校一年生が成績次第では、幼稚園に落第することもあるという。

個人に価値を認めて、強い自我が作られれば、その自我は自分の存在を他に対して主張するようになる。他人に従属しないで自分の意思で主張する。これは西洋における自由の最も重要な意味に通じている。

民主主義とそのジレンマ

この人間一人ひとりが他人に従属しないで、自分たちが自ら所有する権力を行使して、自由になりたいという願いは、民主主義という政治形態を考え出すに至る。民主主義という言葉の西欧の語源は、ギリシャ語のデモクラティア(demokuratia)であり、人民(demos)と権力(kratia)の結合語で「人民の権力」ということを意味している。よって、民主主義というのはこの自由のためのシステムであると言っても過言ではない。

18世紀に、それまでの一般民衆の従属した生活を打破するために、民主主義というシステムが一般に広がっていくが、それは次第に多くの問題点にぶつかっていくことになる。民主主義が実際に機能するときは、議会などを通して、民衆の代表が政治を行なっていくのであるが、実際に政治をするものと、民衆の間に絶えず大きなジレンマが存在してしまう。民主主義の古典的理念であるルソーの個人の契約による権利譲渡の上での「一般意志」も、現実の場面では、民衆すべての意思にはならない。

人道的個人主義と、ロマン的国民主義の台頭

19世紀になり、2つの大きな解放政治運動が起こった。これらは、共に民主主義の問題点を解決するために始まったものである。この2つは、父性原理の「切断」の機能が強く現れたもので、知性と無知、徳性と邪悪、合理性と非合理性といったようなものを切断することによって、それらの後者を分けて、そしてそれぞれの後者をそれぞれ克服すれば、個人の問題も社会の問題も共に解決できると信じていた。

この2つとは、人道的個人主義と、ロマン的国民主義である。これらは誇張され、歪曲さえされて、個人主義は共産主義へ、国民主義はファシズムへと変化した。それは共に理想のため(自己実現)に人を殺すことにも何の疑問も感じなくなってしまったのである。18世紀に考えられていた古典的理論を厳格にそのまま適用していこうとしたもくろみは、19世紀に2つの形になり、否定されていった。

この結果、20世紀になり、19世紀の失敗から父性原理の否定的な面が露骨に現れた。高次で真正で理想的なものと、低次で経験的で心理学的なものが形而上学的に分裂し、前者が後者を統御することは、必ずしも良いことではないということが判明したのである。そして、それは自由の概念にも重大な影響を与えることになる。

積極的自由と消極的自由

現代に最も民主的に政治をするためには、(個人の自由を守るためには)自由の意味を混同させてしまってはいけないとバーリンは言っている。

自由の概念は大きく分けて、積極的自由と消極的自由の2つに分けられる。積極的自由とは、〜への自由であり、誰によって支配されているかということで、消極的自由とは、〜からの自由であり、どれくらい私は支配されているかということである。積極的自由は価値あるものとされていて、自分自身が自分自身を支配することで、それは自己実現のような、生きることの目的になるものである。消極的自由は、積極的自由への過程のようなもので、それ自身に自己実現のような目的は存在しない。個人のレベルで考えるとき、この2つの自由は共に自分に属しているていう点で大差がない。しかし、それを集団のレベルで考えるとき問題が生じてくる。ある集団の積極的自由のために、個人が集団に支配されたら、その瞬間に個人の自由は消え失せてしまう。その時の2つの自由は対立関係になる。なぜなら集団の積極的自由からの自由が必要になるからである。

目的を持った積極的自由という高次なものが目的を持たない消極的自由という低次なものを統御してしまうのは、無残な結果になることは先ほど書いた。個人の自由のためには、「消極的自由や基本的人権(これは抑圧者に対する壁として常に<消極的>観念である)、表現や結社の自由まで含めた基本的人権」を集団や国は保障すべきなのである。それがなければ、民主主義はありえない。

西欧という父性原理の社会で、個の自由はこのようにして尊重され続けている。


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