コルカタのマザーハウスでボランティアをした話🇮🇳
こんにちは、ゆもです!
今日はコルカタ最終日!!既に日本に帰国、振り返りとしてこれから投稿していきます笑
これからブッダガヤとバラナシへ向かいます✨
ブログがんばるぞ!!(再度)
今回の旅の大きな目的のひとつだったコルカタにあるマザーテレサの施設でのボランティア。日本でもプログラムがあったりして有名だけど、実態はあまり知られてないはず。私は個人でふらっと活動したので、比較的自由度が高く過ごしていました^^
今回はそのマザーハウスで自分が約10日間ボランティアをした話をまとめてくよ~😆
どんなことしたん?っていうご参考になれば🤭
ボランティアの概要
コルカタだけでなくインド中で今も慕われ、宗教を越えてリスペクトされているのがマザーテレサ。コルカタには彼女由来の複数のカトリック施設があり、世界中から集まったシスターさん達が過ごしています。そしてまた世界中からやってくるボランティアを年中受け入れています。
施設はコルカタのあちこちに点々としており、施設も子どもとお年寄りや男性と女性で分かれてたりとさまざま。施設同士は結構離れていて、バスやメトロ移動が基本。
ボランティアをする場合、施設への移動も考えなければならないことに注意⚠️
登録方法
ボランティアは登録が勧められており、Nirmala Shishu Bhavan (Missionaries Of Charity) という拠点の場所で、ここで説明会とどの施設でボランティアをするかを決める。ミサや朝の軽い軽食がもらえるのもここ。
日程がよくわからないけど、私が行ったのは金曜日の15時頃。月水金で説明会があるそう。
https://maps.app.goo.gl/qQbgY1oPxPzAjpUWA
活動期間
どこでどのくらいボランティアするかは本当に自分次第。好きに決められて、なかには何十年もボランティアしている人もいるんだそう。
活動は午前(8:30-12:30)と午後(15:00-17:00)に分かれ、午後はKalighat にある有名な「Nirmal Hriday(死を待つ人の家)」でのみ活動が行えた。午前だけでもいいし、お昼の時間は自由。ちなみに朝7:00にこの拠点に行くと、バナナとパンとチャイが頂け、他のボランティアとみんなでそれぞれの施設へ向かうことができる。
今回私は、午前をハンディキャップを持った子どもが過ごす「Shanti Dan(シャンティダン)」で活動し、午後を重病の末期患者が過ごす「Nirmal Hriday(通称カリガート)」でボランティアしました。
ボランティアした感想
マザーハウスでのボランティアは人生が変わるとか聞いてたけど、感想としては生半可なボランティア活動ではなかったこと。がっつりお手伝いで、考えさせられることが多かった。人生の転換期になるにはもっと時間が必要だったのだと思う。でもそのぐらい日々思うことが多かった。もし興味を持っている方がいるのなら、思い切ってやってみてほしい。それぞれにとって貴重な体験になると実感させられた。少し活動した感想を述べてみる。
「Shanti Dan(シャンティダン)」
午前の活動場所。
こちらは私のステイ先から遠くて、市内バスを乗り継いで通っていました。シャンティダンには、さまざまな障害を持った子どもたちが暮らしており、その中でも私は女の子の棟で活動。あまり詳しい話は分からないけれど、おそらくここの子どもたちはみんなハンディキャップがあるという理由で捨てられ、孤児となってしまった子どもたちのようです。ここではシスターさんとマスィと呼ばれる現地のお手伝いさんによって運営されています。ちなみに私たちボランティアのことはアンティとして呼ばれます。
まず衝撃的だったのは、初めて入った寝室のお部屋。ずらりと並んだベットに子どもたちが寝転んでいる様子。マスィーがせっせと子どもたちの体を洗ったり、汚れたパンツを取り替えたりしています。部屋全体に広がる蚊対策の独特のにおい。体が変形してたり硬直していたりして歩けない子もいれば、意思疎通が難しい子もおり、盲目の子どももいれば、自由に動き回る子どももいます。みんながそれぞれの動きをするから、最初はびっくり。不思議な時間が流れている場所でした。止まっているような、少し閉鎖的な感じ。
一日の活動内容の大まかな流れはこんな感じ
ベットメイク、着替え、洗濯
↓
軽い軽食、クラスと呼ばれるお勉強の手伝い
↓
~ティータイム(チャイ休憩)~
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昼食の手伝い
↓
ベットに連れてお昼寝
このクラスというのは、子どもたちにとっての頭のトレーニングの時間。内容はさまざま。風船やタンバリンで遊ぶ子もいれば、積み木やカードで練習する子、あるいはアルファベットや数字を書きとる子どももいます。またこの時間に身体療法や音楽療法のようなこともランダムで行っていました。アンティ(ボランティア)はそれぞれの子どもたちの学習をお手伝い。勉強というよりは遊びに近いのだけど、同じ日々を繰り返す子どもにとっては刺激される時間なのだと思う。子どもたちはそれぞれ障害の度合いなどでクラスが分けられ、座る場所も決まっています。離れようとする子にはマスィ(現地のお手伝いさん)がかなり厳しく怒る。強制的な度合いが強め。
チャイ休憩後に行うのが昼食のお手伝い。日本の学校給食のような大きなお鍋で運ばれてくるのは、やはりインドらしくカレーと米。おかずとフルーツは毎日変わっていたけど、カレーであることに変わりはない(笑)。子どもたちに合わせてマスィが軽く潰したり、ミキサーでペースト状にしたものを私たちが子どもたちに食べさせます。私はご飯を誰かに食べさせるという経験が皆無。しかも多くの子は飲み込むのが得意ではないから、食べさせるのがすんごく難しい。慣れた手つきで次々に流し込んでいくマスィには感心した。この食べるという動作が今回の午前午後の活動の中で私が引っ掛かった部分。後に話していこうと思う。昼食後は子どもたちをベットに次々と連れていき、強制的にお昼寝の時間となってボランティアは終了する。
「Nirmal Hriday(死を待つ人の家)」
続いて午後の活動場所。
ここが私やおそらく皆さんがイメージするマザーテレサの施設ではないかと思う。すなわち、重度の病を抱えた末期の高齢患者が静かに死を待っている施設だ。ここが複数あるマザーテレサ施設の一番歴史があるところ。男性と女性でベットが分けられて並べられており、私は女性のほうの場所で活動した。
シャンティダンで活動を終え、バスでサダルストリートのほうへ。昼食を取ってから今度はメトロを使ってKalighat(カリガート)まで。みんなこの施設のことは地名のカリガートと呼んでいました。シャンティダンとは異なるまた違った空間。前者はある意味で不調和音みたいなにぎわいとぬくもりがある温かい感じなのだけど、カリガートはただただ静かな時間が流れている。少し寂しげで物憂い様子。痴呆が進んだ患者さんのひとり言がやけに響く。それでも動き回る白と青のシスターの姿や、施設のあちこちに飾られているイエスやマザーテレサの絵画によって、どこか神聖な雰囲気が感ぜられる。
ここでの活動内容はこんな感じ
チャイ後の薬の時間
↓
夕食の手伝い
↓
食器洗い
シャンティダンより活動時間が短いため、基本的に夕食のお手伝いがメインであった。シャンティダンとは違って、ほとんどの患者さんは自分で食べることができる。ただ量が明らかに少ないこと、食べなかったり苦しそうにしている姿が少し悲しかった。末期の方の点滴のお手伝いや、排せつのお手伝いもした。英語がわからないから、おばあちゃん達が言っていることがわからなくて葛藤。それでも多くの方が話しかけたり笑いかけると、笑い返してくれたり、そっと私の手を額に当てたりキスをしてくれたりする。ただただ静かな時間。患者さんのために活動しているのだけど、同時に自分と向き合っているような時間でもあった。
意味のない時間
ではここからまとめ。
さきほど少し呟いたのだけど、今回のボランティアで一番考えさせられたのは「食べる」という時間。午前は子どもたちに、午後はお年寄りにご飯を食べさせるという活動から思うこと。シャンティダンでは子どもが食べることを嫌がると、マスィが叱って無理やり食べさせようとする場面を見かけることがあった。カリガートでは食べないおばあちゃんを咎めはするけど、死が迫っている中では本当にどうしようもない。午前と午後の活動をして思い知らされた人間の生まれてから老いて死ぬというサイクル。私はもうすぐ二十歳で進路とか就職とか聞かれるようになった時期、そこで最近考えることは自分の生きる意味とか生きている理由。施設で繰り返される機械的な食事の様子を見ていると、この人たちが生きている理由は何なんだろうと考えてしまった。すごく残酷かもしれないね。でも例えば社会生産とか人的資本の視点から見てしまうと、障害を持って長くは生きられなかったり一人では生きていけない子どもや死を待つことしかできないお年寄りを必死に生かすことって意味がないとされてしまうと思う。意味がないんじゃないか、理由がないんじゃないかってすごく考えたの。
で、結果的に自分が行きついたのは、生きることに意味や理由がいるのかっていう逆説的問い(笑)ひねくれてるかもしれないけど、私は活動の中できれいだなあって思う瞬間に度々めぐり合わせた。例えば子どもたちに対して時々キツすぎるんじゃないかと思ってしまうマスィの態度。けれども実際にお手伝いして思う毎日を繰り返して子どもを見ている忍耐力のすごさや、ふとしたときに子どもたちに見せる愛のこもった母なるまなざし。あるいは静けさが耳に痛いカリガートでも、食事前に必ず行うマスィたちの楽しげな歌やシスターたちの明るい笑顔。
なんかそういうのを見ていると、意味とか理由とかにとらわれている自分が馬鹿らしくなってくるのね。人生において何かを成し遂げなきゃならないと焦って不安になるのも、狭い視点なのかもな。その瞬間誰かと一緒に笑えたり、共感しあえたり、じーんと幸せを実感できる瞬間があるだけでもういいんじゃないかなあって思った。ある意味、自分に対して安らいだ時間、時間に対してリラックスできた活動の日々であったと思う。日本では決して浸れないそんな”意味のない時間”を過ごせただけで、私はコルカタに来れて本当に良かったとここから実感した。
以上、またなにか整理がついたら書こうかな。
インド旅はまだまだ考えたことがいっぱい。
グルメも紹介したいしね(笑)
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