本が読めなくなった〜豆のスープ〜
過去の記事を読み、本が読めなくなったことについて、過去にも繰り返し繰り返し書いていたことが分かった。可笑しいくらいしょっちゅう、本を読めなくなったことを嘆いていた。自分は小さいときから本ばかり読んでいて、ゲームのない家だったこともあり、一番の娯楽は本だったのだと思う。(テレビも見ていた。ミュージックステーションや歌の大辞典など歌番組が好きだった。)そして、自分のアイデンティティとして、本を読むことが好きということが結構重要だったし今もそうなのだと思う。
今から4年前、私は病気が原因で、自由に外に出られない隔離された環境にいた。
その時友人たちが本当にマメに手紙を書いてくれ、本を送ってくれた。それが嬉しく、私もマメに返事をし(だから友人もマメに書かざるを得なかった)、本を浴びるように読んだ。 その時差し入れしてくれた文庫版『さきちゃんたちの夜』よしもとばなな著を、今読み返している。何度も何度も読み返し、ドッグイヤーをしたり付箋を付けたりしたお気に入りの一冊である。
過去の記事で、私は、病気によって離婚し、子どもと離れさせられた母親という常識外の状況に置かれているために、常識の範囲を前提とした言説には心が揺さぶられず、むしろ辛くなるだけだから本が読めていないという考えを書いた。もちろんそれが常識というか普通だと考えないのは私の考えが偏っているせいかもしれないが、離婚時に母親が親権を取れる確率は約9割とも言われているらしい。精神障害者の数も健常者に対してみたら少ない。
しかし、よしもとさんの文章はあまりそういった人間の常識にはまっていないように感じる。すべてを読んだわけではないからわからないけれど、そういう物語が多いのかもしれない。なので、別の本にも挑戦しようかと考えている。登場人物も自由な考え方の持ち主が多いようである。そういう物語を読むと、私の心に栄養が満ち、"当たり前"にとらわれない鷹揚な気持ちになれ、癒やされる。
だから、本が読めなくなったとタイトルに書いたが、じつは今は、『さきちゃんたちの夜』だけは読めるようになった状態である。『さきちゃんたちの夜』には滋養に満ちたレンズ豆のスープが登場するが、まるでそれはよしもとさんの文章のようだと思う。