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「不自由」論

Perplexityさんに「自己決定力と他者の尊重を身につけるのに役立つ書籍」として薦めてもらったシリーズ第一弾。哲学的な話で一読しただけでスッキリ「わかった!」とはならないけど、なるほどと思ったポイントをメモ。

副題が "「なんでも自己決定」の限界" で、「自己決定」の前に、その決定を下す「自己」はどんな「自己」?と言う問いが投げ掛けられる。

確かに、「社会的な動物」である人間の「自己」は、どの共同体の中で、どの文脈で捉えるか、によって変わってくるだろう。最終的に決めるのが自分であったとしても、そもそも「他者」がいなければ何が「自己」なのかすら分からないのだから。

「自己」を再想像するところから始めれば、当然にそれなりの時間が掛かる「自己決定」を下すことに対して、現代社会では何に対する「自己決定」なのかよく分からないままに、"とにかく自己決定" と言う圧力が働いている、と言う最終章の言葉に深く頷き、30年ほど前、仕事でしばらくイギリスで暮らした際に、当時の日本とイギリスの生活「ペース」の違いに驚いた事を思い出した。

東京での暮らしは24時間いつでも何でも手に入る便利さと引き換えに、常に何かしらに追われ「自分」の頭で考える時間的余裕を奪われた生活だった事に、夕方5時には粗方の店が閉まってしまう田舎町の環境の中で気付いた。

突然与えられた「余白」の時間に最初は戸惑ったが、暫くすると、誰に何を強いられる訳でもなく、ただ単に「自分がやりたい事をすればいい」時間のある生活は、実に豊かだった。まだインターネットがそれ程発展していなかった時代だったことも幸いした。

今の生活では、あの当時ほどの「余白」は与えてもらえてないけど、自分で作れば良いんだよな。幸い私はそれが許される状況に居させてもらえてると思うので。

エピローグにあるように、"「思考」の面では、急いで回答を出そうとせず、自己の立脚点を脱構築し続け、「実践」面では、その場その場の状況に応じてプラグマティカルに振る舞う"を心掛けてみたい。

「脱構築」なんてのは、そもそもの言葉の意味すら理解できてる気がしないので私が使うにはちょっとカッコつけ過ぎだけど、ちゃんと「状況」を自分なりに把握して、どの「自己」として捉えるべきか熟考してから「決定」しようね、位な意味合いで考えてる。

あれ?これって要するに、「7つの習慣」セミナーを最初に受けた時に衝撃を受け実践を試みるも未だに実践出来てない「刺激と反応の間の隙間を広げる」って事かな。結局そこに帰って来る気がするな。


ちくま新書『「不自由」論 ——「何でも自己決定」の限界』
仲正昌樹 著

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