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お立ち合いのうちに


こんにちは。三日坊主です。
もはや3日も続いてないというのは置いといて!


前回から行なっている「清水美沙の好きなもの100」。
好きなものが多く流動的なわたしが好きなものを100個語り、皆様に何かしらを受け取ってもらって今のわたしを知ってもらおう!(同士が見つかるのも嬉しいな!)という勝手企画。

1個目の記事はこちら
(これを読めば大体説明がつくと思う)


そして今回、はえある2個目は「お芝居」。
演技、ACT、呼び名や明確な定義はたくさんあるんだろうけど、今回は概念という意味で、あと口当たりがかわいいという理由で「おしばい」とする。


わたしはお芝居が大好き。見るのも、知るのも、やるのも大好き。
それは物語が好きで、人の移り変わりが好きで、新しい側面が好きで、空想が好き、もしもが好き、外側からは想像つかない姿や、緻密な煌きや、大胆な格好良さ、儚い美しさが好きで、その全てを「お芝居」は持っているから、である。


幼い頃から、空想やお話の世界が大好きだった。テレビも大好きで、保育園の時の将来の夢はモー娘。に入ることだったのを、自分でもきちんと覚えている。
幼い頃からバレエを習わせてもらってたので、バレエの先生という忖度的な夢ももちろんあった。

そんなある日、テレビっ子だったわたしはもはや日課のCMまできっちり全部見るやつ(子供ってほんとにCMソング覚えるよね)をやっていたところ、一つの広告に心奪われた。
薄く紗がかかった画面の中で、髪をひとつのお団子に結んだ女の人が踊っている。その後ろには男の子もいて、女の人についていくように踊っている。「茶林」と言う曲に合わせてくるくる女の人の美しいスカートとシャツが、動きに合わせてひらりと舞う。そんな某烏龍茶のCMだった。
私はそのCMの真似をしながら、母親に「テレビってどうやって入るの?」と聞いたらしい。当時はまだブラウン管だった。

言ってしまえばありふれた経緯で、しかしその一瞬で1人の人生に業を課してしまった、お芝居、演劇というもの。
業、まさに業だ。わざ、なりわい、ぎょう。業とはカルマに由来する。
そこから本当に絶えずいまの今までずーーっと足掻き続けているのだから、好きだし、もはや好きとかいう次元を逸脱しているのは分かってもらえると思う。


人の種類はいくつかあって、その中の一つに「人生をプレイヤー目線で過ごしている」というのがある。と思う。そういう人は物語を見たあと台詞をその人の顔しながら反芻するし、頭の中でPVに出演する。
もちろん人生をプレイしてるのは自分自身で、それは当たり前なのだが、そうではなくて、物事そのものに対しての向かい方が、「プレイヤー」か「観衆、または俯瞰」か、という話だ。
どちらが偉いとかではないのだが、かくいう私はどちらかというとプレイヤーである。

だから好きなものは手に触れて、そして手に入れたくなる。もしかしたらお芝居している人はみんなそうかもしれない。例えばもう本当に絶望することがあって、「もう女優なんて、もうやめよう」と思っても、映画一本見てしまえば、すばらしい言葉に心躍らせれば、世界を見せられれば、また「ああやりたい、何がどうなっても」と戻ってしまうのだ。


演技をしている時の、人の感情の動きが好きだ。なにより、それを知る時が、手に取る時が好きだ。目にほんとうに、ハイライトのような、光が入るのだ。
いつも大人しくて小さくて耳を傾ける人が、身の毛もよだつ程恐ろしい顔で怒っている様を、みずみずしく美しい人が、100%以上の魅力で笑みを浮かべる顔を、強く堅い人が、掌の上に乗った小さな悲しみを携えて立ち尽くす姿を見る瞬間、その美しさに、震える。
ギャップだから、というのではない。
演技というものはゼロから生まれる嘘ではなく、液体のような、形が目に見えず、けれど絶対に自分の中に存在する(あるいは生みだす)何かを目から、口から、心臓から表に出すものなのだ。だからその人から出てくるものは、その人のもの。お芝居は普段仕舞われている、もしかしたら2度と見られないその人のかけらを見ることができるのだ。その、なんと貴重で、美しいことか!


経験してきて、お仕事としての魅力はまたいろいろ別の方面もあるから、今回は「お芝居」としてみた。美化しすぎているかもしれない。その道中の苦しさや理不尽さに蓋をする発言かもしれない。しかし、その一瞬の歓びを1度でも知ってしまったものは、きっとこの手に入れたいと思う心を無視できはしない。

是非、その業の向こうにある世界を体感して欲しい。門戸はいつでも開かれている。
体ひとつで始められる世界なのだから。


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