裁判の傍聴に初めて行ってみた
みなさんこんにちは!
架空の大衆へ呼びかけてしまうのは、古のネットユーザー故でしょうか。
そんなことはさておき、東京地方裁判所の裁判を傍聴した経験について書いてみます。
普通の裁判は整理券なしでも傍聴することができます。(混雑が予想される有名な裁判は整理券が配られたりするらしい)
私が傍聴したのは、ちょっとタイムリーな「出入国管理及び難民認定法」に関する裁判で、オーバーステイに関わるものでした。
法律の専門家ではないので内容については書きませんが、裁判というシステムに関して気がついたことがあったので、順番にメモしておきます。
気になるポイント
その1
・検察官はジェットストリーム派
手書き文化が今でも根強い法曹界では、好きな筆記具がそれぞれあるらしい。万年筆の人、ノック式は使わない人、銘柄指定の人…今回の検察官はジェットストリーム(ノック式)派のようだ。
その2
・検察官は書類を持ち運ぶのに風呂敷を使っている!
今でも風呂敷を使っているのか…
官給品らしき、桐紋入りの風呂敷を使っている人、裏表で色が違うおしゃれ風呂敷を使っている人など。いろいろな検察官がいる。サイズが異なる紙をたくさん持ち運ぶので便利なのかもしれない。
その3
・「常識ある日本人」の代弁者であるかのような、検察官の態度
法律を取り扱う職務上、仕方がない態度なのであろうが、少し気になった。
検察官「子供をつくるときに既に不法滞在状態だったと思いますが、どうしようとしていたんですか?」
という質問があった。
子供は「つくる」ものであるという認識を基に発言していることが伺える。子供とは偶然できるものでもなく、授かるものでもなく、管理して「つくる」ものであるのだという前提がありそうだ。
そして最後の部分「どうしようとしていたんですか?」
どうしようとしていたかって言われても…自分だったら答えられないなと思った。「帰国して不法滞在状態を解消したのち、子作りを行うつもりでした」とでも言えばいいのだろうか…
法律を守るということには、公での行動だけでなく、私的な空間・思考・行動にも影響を与えることを再認識した。
その4
・「日本に再度来ない」ことへの再三の確認
執行猶予をつけるかどうかに関して、日本に再度来る意思があるのかが重要であるのだと思われる(法律家でないのでわからないが…)。
日本に来ないことを誓うことにより、刑が軽くなる…まあそうなんだろうなとは思うが、都合が悪い人を日本から追い出しているようで、なんとなく、居心地が悪い。
その5
・裁判官が言う「身勝手」とはなんだろう?
裁判官が最後に「借金の返済のために不法に滞在し続けることは身勝手な行動だとわかっていますね?」のようなことを聞いていた。この時の「身勝手」とはなんなのだろうか?
学費が払えなくなり、法定の時間以上働き、ビザが更新できなかったことが「身勝手」なのか、借りた借金を返すためにオーバーステイしたことが「身勝手」なのか…それとも裁判では限られたことしかわからないので、もっと「身勝手」な行動があったのか?
身勝手ではない行動など存在するのだろうか?
身勝手な行動を規制するのが法律なんだろうか?
傍聴席の最後列で考えたこと
法律のように、静的で真正、基準が明確であるように思えるシステムも、運用する主体は人間であり、一つの結論にたどり着く過程(プロセス)には、当事者の状況や文化、経験といった動的で一定でない要素によって左右される側面があるように感じた。
そんなことを考えていると、ふと、文化相対主義とその批判(※)について思い出した。
※文化相対主義
「人類学用語。人間の諸文化をそれぞれ独自の価値体系をもつ対等な存在としてとらえる態度,研究方法のこと。みずからの文化を,唯一・最高のものとして考えるエスノセントリズム (自民族中心主義) に対する批判として形成された概念で,アメリカの人類学者 F.ボアズが提唱し,R.ベネディクトによって確立されたといわれる。たとえば,一夫多妻婚,嬰児殺しなど,他の社会では悪とみなされる制度や慣習も,文化相対主義に立って当事者の立場から価値評価することで,その意味や目的,役割は理解されうる。このような中立的な姿勢は,文化の多様性を容認して異文化間の相互理解を促し,また,人類学の基本倫理ともなってきた。しかしこれを推し進めれば,すべての価値は相対的であり,人類に共通の基盤が存在せず,相互理解,比較研究は不可能であるという矛盾に陥る。また完全に客観的な立場というものの可能性を疑い,研究者は中立的に沈黙するのではなく,対象社会の利益のために積極的に行動すべきであるという批判もある。」(出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典より引用)https://kotobank.jp/word/%E6%96%87%E5%8C%96%E7%9B%B8%E5%AF%BE%E4%B8%BB%E7%BE%A9-170928
このnoteを最初に書ききったときは、「裁判では法律という偏った『常識』を権力によって押し付けている場だ」とえらく夢見がちで、おバカなことを書いていた。
しかし、そうだろうか?
裁判以外での紛争の場では(専ら頻度や数はこちらが多い)、互いが持っている見えない前提や、事実への認識、真正性への認識などをすり合わせることなく、声の大きさや武力、政治力などによって「解決」していくこともある。
土台を揃えて「冷静に」議論し、事実を確認した上で、何かしらの決定を行う裁判はとてもフェアな感じがする。まあ、感じがするだけかもしれないけど。
目の前にいる「他者」がどんな状況にあるのか。私と「他者」はどのように出会っているのか。
部屋の真ん中で立っている、寒々しいサンダルを履いた彼と、ネイビースーツを着て、ジェットストリームで書類にメモをする壁側の彼にはどんな違いがあり、どんな違いがないのか。彼らは出会っているのか、出会っていないのか。
ここは他者への理解を始める場なのか、諦める場なのか。
よくわからないな、と思っているうちに裁判官は部屋の奥へ消えてしまっていた。
「法廷を締めますが?」
私は木目調のドアを開け、天井からパキパキと音のなる部屋から、自分の意思で退出したように思う。