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ともす横丁 Vol.3 「電力の鬼」に会う

壱岐は、「電力の鬼」と言われた松永安左エ門の生まれ故郷。退職の記念に、そして夫への感謝を表すのに相応しい場所だと思った。そう、終わりの始まりにピッタリだと。

松永翁は、近代日本の象徴ともいえる電気事業に立ち向かう姿がまさに「鬼」のようだと言われた。戦後「日本の復興は、”人心の高揚”と”エネルギーの拡大”なくして発展なし」と考え、幾多の困難を乗り越え、電気事業を今の形に導いた。

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数十年前に建築したと思われる「松永安左エ門記念館」は、ひっそりと建っていた。古めかしくなっているものの、地元の小学生が見学に来るようで、感想文が所狭しと張ってあった。こんな人がいたとは知らなかったようで、誇らしげに書いてあるものが少なからずあった。

在職中、折に触れ、松永翁の話が出され、日本の西端にある小さな島壱岐を生まれ故郷とする人がなぜ日本の電気事業を切り拓くまでに至ったのか、不思議な心持ちでいた。

しかし、今回の旅で少なからずその謎は解けた。壱岐は地政学的な重要性から、歴史上重要な役割を担ってきた。松永翁の祖父にあたる人は、いくつかの事業で財を成し、松永翁に次代を担ってもらおうと様々な学びの機会を与え、その中には捕鯨の指揮を執っているところもあったという。

観ていたのは島内ではなく日本全体、さらに次の時代だったのだろう。それは容赦ない自然や運命と生きる島民たちを目の当たりにし、変化の激しい状況にあって、いかに導くかを思案し行動し続けた祖父に倣った生き方だったかもしれない。

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いくつもの写真から垣間見える松永翁の表情からは、いかにあるかを思案し続ける姿勢、妥協ない厳しさ、その奥深くにある強い意志を深く感じた。

「・・財産はセガレおよび遺族には一切くれてはいかぬ。彼らがダラクするだけです。・・」という遺言にあると同様に、自分の欲やエゴとは全く無縁で、どこまでも広く社会のために生きた人だった。

松永翁は、23歳の時に「我が人生は闘争なり」と言っている。何度死にかけ、不遇の目にあっても自らの信念を完遂した。その自分を信じる力こそ、原動力だったのかもしれない。

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終わりの始まりは、その「意志」のありようだ。どこまでも広く社会のために自分を尽くす、その「意志」だ。その「意志」が、種火となって、広がっていくのだろう。なぜ壱岐なのかが正直よくわからなかったが、松永翁の写真に出会い、それがわかったように思う。

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