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【1,332】人間味の有無

昨日の夕方、隣人の学生さんと、車で無いと行けない日系マーケットへの買い出しに付き合ってから、時間に余裕が互いあった事からマックで飲み物一杯だけ頼んで2時間近くあれこれ話していたとき(日本の女子高生みたい)、数日前に宮崎監督がドワンゴ社長にキレたという話し上がって、その時に彼女が言っていた「川上さんってそもそも喋り方がワタシはキライで、何か人間味が無くて機械的なんですよ。」「鈴木敏夫さんとの各種対談を聞くと、それが浮き彫りになってます。」「今まで宮崎監督がブチ切れてなかったことのほうが不思議です。」に、やたら納得してしまった。

確かにあの会社みたいな、ネット文化に染まり切った事業を立ち上げているような人物であれば、極端な理系というイメージを私も容易に抱くもので、宮崎監督の吐き捨てた「生命への冒涜」的なものを、よりによって人間観察に長けた相手にプレゼンするお手付きをしたところで、なんら不思議じゃないどころか、やけに自然に思えてしまった。

私もインターネットの恩恵を長年、随分と被っているが、一方で頻繁に感じるインターネット社会の人間味の無さというか、冷徹さに、背筋が寒くなる時がある。

特にツイッターがあまりに日本社会で普及するようになってから、血肉の通った日本語の文章を目にする機会が本当に減った気がして、ならない。

例えば私は、amassという日本語情報サイトが大嫌いで、何故ならあれはあらゆる点から人間味が感じられないから。提供されている情報の有用性云々ではなく(もっとも情報提示自体も、元のソースが英語の場合、誤訳や抜けが目立つが)、機械化した人間が運営してるんじゃないか、との本能的な気持ち悪さを抱くのだ。段々スカイネットがフィクションじゃなくなってくるような、居心地の悪さなのよ。

またあのページを嬉々としてリツイートしているアカウントからも私は同様に、人間味を感じない。むしろ、商売臭い。せっかく個人としてツイッターという娯楽をやっているのなら、もっと自分の主張をしても、とは思うが、どうもそうしたユーザーから「何が本当に好きなの、嫌いなの?」が、見えてこないのだ。

私としては、ツイッターというツールも、人間が操るわけだから、140文字制限の中でも血肉を通わせるのは十分可能どころか、むしろその場の思いつきを幾らでも発せられる事から、ライブ感覚に凄く溢れているとすら思う。

そのツイッターから、ツイートされているのに死んでいる、的な空気が感じられると、こんな時代だからこそオンラインだろうがオフラインだろうが前向きさと活発さを糧に生きている私なんかは、一気に醒めてしまうのだ。

気付いたら私もこのnoteというフォーマットで、淡々と日常を文章化したりと、自分が残せる記録を時間の許す限り残して、特に自分と関わりあるひとたちへ向けて公開しているが、その行動原理自体がもしかしたら、そうした人間味の無さへの抵抗はたまた、140文字で日々が完結する事へ対しての剥き出しの悪意、なのかもしれない。

ブラックサバス(Black Sabbath)が22年も昔、それもLA暴動後に出したディヒューマナイザー(Dehumanizer)」で風刺していた内容や世界観に、時代が完全に追いついた感がまあ、なんとも。土に埋まって死ぬのは我々が先、か。