【3,833】隣町の探索&自分との共通意見
最近朝6時どころか、朝5時に目覚めてしまう。
その代わり、寝るのも早い。10pm前には瞼が重くなる。
朝早く起きる分だけ、夕方から夜にかけて溜まる仕事(仕事相手は日本にも居るため)を、集中して一気に片付けられる。
今日金曜の11月11日は、アメリカは復員軍人の日(Veteran's Day)に当たるため、お役所を始め、教育機関も公立はほぼ休校、私立も「先生の気分次第で」休校。
午前中に投げた返しの反応もどのみち週明けになるし、金曜のお昼以降は本当にやることが無くなるので、天気も良かったことから(11月なのに85F=29℃前後の日々が続いてる)、これから長年生活をすることになる、隣町のアズーサまで、電車と徒歩を使って向かう事に。
現在の住まいの最寄りの駅(徒歩15分)からは、19分でDowntown Azusaの駅まで着いた。
その駅から、入居予定のタウンハウスまで、徒歩でわずか15分。
さらに駅の付近は3時間まで無料駐車可能なスペースが沢山あるので、車で3分で駅まで向かえば、時間を短縮できる。
それなりの規模の映画館を含めたショッピング・プラザも駅から徒歩20分ほどの場所にあったし、プラザ自体は(金曜の午後らしく)かなり活気があった。
つい3日前に、無差別銃撃事件が発生したのもあって、特に現場近くは巡回中のパトロールカーを見かけたりしたが、全体的には静かな雰囲気の街の典型で、特に私たちが住むタウンハウス付近は、裕福そうな夫婦や家族が呑気に散歩をしているのを、常に見かけた。
2時間ほどあれこれ散策し、現在住む街へも40分程で帰れた事から、妻が選んだ街なのに間違いないのを、確信。これからLAに遊びに来るひとたちを是非、招きたいと思った次第。
帰宅後、ツイッター上で先に貼り付けておいた、EW誌の記事に再び目を通し、それを別所の雑文のネタにする。
アメリカのアニメーション関係に繋がる話しだから、あちらの読者の興味を惹くことだろう。
あちらでもひっそり推す形を取ったが、作品自体に物足りなさは当然感じたものの(絶対的な悪役の不在、父親の唐突な過去描写など)、Your Name was nomitated for the 89th Academy Awardsというのを、同じ日本人として聞きたいのは、正直なところだ。
また知人のツイートをまとめ読み(タイムラインだけだと漏れが必ず出るため)していたら、思わず「いやほんと、その通り!」と膝を叩く瞬間があったので、以下、僭越ながら引用させて頂く。
ツイッターの書き込みで流してしまうのがあまりに勿体ないので片っ端から引用してしまったが、もうね、ホントそれ。
私が日本の、肩書きを誇示する物書き連中(特に映画や音楽関係のライター)の大半を微塵も信用していないのは、彼女も喉元に短剣を刺すかの如く指摘していた、「○○は日本の××だ」パターンに陥るのを、山のように目にしたから。
例えば、映画、音楽、書籍等の様々な娯楽文化に踏み込んでは、最低限のリサーチを書き手が行って、数分ではスキャンできないほど濃い批評記事(水木しげるさんの隠れた名著「コミック昭和史」の英訳版レビューでは、作品に即した日本社会や文化への言及も、きちんと成されている)を当たり前のように掲載している「PopMatters」といった読み物の密度と面白さに慣れてしまうと、日本の「そーいった駄文連発で小銭稼いでるゴミみたいな連中」からは、書き手から「自分も必死に勉強して、読者にそれを伝えよう」という、情報提供者としての大切な意識が感じられず、むしろ「これを好きな自分が好き」「自分の意見が最高」感がヒドすぎて、読むに堪えないものが大半、というのが、私の強い偏見である一方でそう簡単に覆らない印象。
勿論、例外もあるけど、そういった知性あふれる書き手は残念ながら、既にお亡くなりになっていたり、全く別分野出身からだったり、する。
さらにイナモト嬢は、こうも畳みかける。
自分とここまで考えが共通している意見を読めるのは非常に嬉しく、同時に自分自身の思考の基盤をより強く固めてくれる支えにも、なってくれる。私も心底、そう思います。
なんだろうね、私もとにかく雑多な分野に興味を持って首を突っ込むのが好きだが、会話の中で特定分野の事を良く知らない相手にそれらを説明するときは、「○○に関してだけど、国境や文化が違っても××というのがあって、それが○○を△△といった部分で想起させる、または共通する事があるように私は感じたから、もし興味があれば……」「○○と、ある意味では似たようなことやってる××ってのがいて、もしかしたら面白いかもしれないよ」との形で、断定を極力避けて(勿論、先日のようなお手付きもしてはしまうが)、相手が興味を惹けるようにあれこれ言葉を、選ぶものだ。
そこには、頭を使う・知恵を絞る・必要に応じて資料も調べる、といった、それなりに時間を取られる作業や工夫が生まれてくるが、人間として生きる愉しみはどれだけそうした事柄に時間を割けるか、をここ何年も考えるようになってきたのもあるのと、年齢相応の事を知ってないとならない、との自負が生まれている為、そういう肝心な部分で手を抜くわりに声だけがデカい相手に対して、殊更嫌悪感を抱くようなのだ。
人間関係でも、それに近いのあったな。ちょっと思い出してみる。
思い出した。「yyyくんのキャラなら絶対に気に入るから! 観てよ! 聞いてよ!」と言われて強制的に本やらCDやらを押しつけられたのだが、根っこであまりに私の好みと違いすぎて、ごめん引っかかり所が分からなかったと返却しようとすると、「いやyyyくんなら絶対に気に入ると思ったんだけどなー! そんなこと言わずもう一度試してみてよ! 勧めた俺がバカみたいに」うるせー!
そいつはどうやら私の表面的な部分しか見ていない、というのを当時痛感させられたし、まあそいつは誰に対してもそんな感じの押しつけがましさだったのでどんどんハブられてったのが外から観ていて納得でもあったが、趣味に関しては可能な限り選択肢を設けて、自分の好みが必ずしも相手に伝わるとは限らないとの「当たり前の事実と前提」を意識するようになったのは、その頃からだったかもしれない。
あ、そうそう。そいつね、「俺がススメるんだから間違いないって!」言ってたわ。ススメる自分酔い、をする人間は、昔から存在するものだ。
ちなみにその押しつけくん、学生時代はそんなに巡り合わなかったが、インターネットを本格的に始めて交流をあれこれ広げてからは、もうわんさか出会ったものだ。気分的は、「こ、これがインターネットの、恐ろしさか……」。私を倒した所で第二、第三の私が現れるのだぞ、みたいな。
私が自分よりも年下と気兼ねなく話せるのは、根っこの部分で、情報や知識を共有して少しでも風通しを良くしたい、という意識が働いているからだと思う。
年下だろうと、私とは違う生き方を当然しているゆえに、全く異なる経験を積んでいるから、そういった部分で話しを聞くのはめっぽう面白く、逆に私からも年上のメリットを使って興味深い話しを遠慮なくすることが出来る。
ちゃんと理論的であれば、私と違う意見を言われても、常に歓迎している。
でまあ、年下(主に現役の学生)の方々の共通の愚痴が、「親を含めて自分よりも年上の相手が、びっくりするぐらい自分の話しを聞いてくれない。」「でも既にコッチが知っている”程度の”情報や知識を上から目線で語る。」「自分から筋道を立てて丁寧に意見をしようとしても話しを遮られて、頭ごなしに否定される。」
これって、肩書き誇示で中身の無い駄文を綴ってる物書きに対する私の強い偏見と、近いじゃないの。
まあとにかく私がいま出来るのは、柔軟性をちゃんと持った年上や同年代には相応の敬意を払って接し、自分よりも明らかに知識も経験も豊富な相手の言う事は素直に聞き、積極性のある年下の背中はどんどん押す、といったところだとは、強く思っている。