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フリーランスになって気づいた『ない』ことの価値
こんにちは、フリーランスコーチのゆみです。
独立して数ヶ月がたちまして、今後の自分の生き方を考えたときに家にこもってコーチングをするだけじゃなくていろんなことに挑戦したいと思って、色んな場所に顔を出すようになりました。
会社をやめて、フリーランスになったわけですが、活動してわかったのは、気を抜くと社会から隔離されているくらいなのでは!?と思うくらいつい引きこもりがちになるのです。
実際、フリーランスを始めてやっぱりやめた人の中には「一人はさみしい」といって会社に戻っていった人も少なくない。
だからこそ、最近はリアルなコミュニティに顔を出したり、できる限り移動して色んな人に出会うということを積極的にしています。
色んなところに顔を出しているうちの一つ、去年始めて訪問した北海道の東川町に行ってまいりました。
実は、東川町に行くのは初めてではなく、去年の5月に一度訪問をしたことがあります。
当時のことを書いたnoteはこちら。
当時は独立する前で、これからの人生どうしよう??って悩んでいて、とにかく「立ち止まりたい」みたいな感覚を持っていたときに、北海道の東川町にある、デンマークのフォルケホイスコーレという学校を再現したCompathに出会いました。
当時、Compathに行ったときの私の心境はこんな感じ。
わたしは今、自分が自らが望んで入った会社の中で生きている。
それでも、最近目の前の出来事がせわしくなく過ぎていく中で、
「前に進み続けないといけない苦しさ」
「生きるためには立ち止まることを許容されていないような感覚」
を同時に感じていて、それが今本来わたしが見たい未来を落ち着いて考える思考を止めているようにも感じていた。
「なんかこのままずっと、このままでいいんだっけ?を一人でも考え続けても、変化が起きる気がしない」
「この状況を一旦打破するためには、強制的にでも休みがあった方がいい」
と感じたわたしは、今年のGW、思い切ってCompathの7泊8日のショートスティに参加することにした。
Compathの詳細の体験はこちらのnoteに連載式で書いているので、ぜひ読んでほしい。
Compathのプログラムの目的は、余白を味わい自分の人生の分岐点をじっくりと眺めることだった。だからこそ、やることは最低限。参加者も、多種多様で、10代から60代までの年代もバックグラウンドも様々な人たちと1週間衣食住を共にする。
この一週間過ごしてみてわかったのは、一緒に過ごしたいと思える人達がいることの存在のありがたさ。
そしてそこには何も肩書も何も必要なんてなくて、ただそこに食卓を一緒に囲んで対話することだけで人は繋がれるのだということだったんですよね。
そして、なんにも肩書を気にしない相手と関わることってこんなに心地よいんだということ。
当時と違って、会社員でもなんでもなくなったわたしがもう一度あのときに出会った彼らと出会うとどうなるんだろう。
そんなことを思っていたときに、企画されたプログラム参加者との数カ月ぶりの同窓会。
ちょっと前の私だったら色々理由をつけていかなかった。
でも、今の私は行きたいな、人に出会い続けたいと思っている。
もう一度、Compathに出会いに東川町に行ってまいりました。
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今回は一泊二日と弾丸でいってきたのですが、予想以上に濃い時間を過ごすことができました。
東川町には多くの娯楽があるわけではありません。
楽しみ方と言ったら、車を走らせて、スーパーに行って食材を買い、そして温泉に行ったり、顔なじみのお店でご飯を食べる。
今回は校舎の近くの坂になっていることで、そり遊び.。
北海道限定のサッポロクラッシックをみんなで飲んで。
焚き火を囲んで、人の生死について話す。そんな時間を持つ。
なんだか生きているなぁと実感が湧く。
私はコーチングという形で人の相談に乗ることが多いのですが、みんな口を揃えて言うことは「私には、〜がない」という言葉が多いのですよね。
「〜がない」というのは一般的にはネガティブな印象を持たれやすいし、たしかに社会の中で生きていると、「ない」ことはネガティブに捉えられやすいことではあるもかもしれないなと感じる。
でも、いつも東川町に来て思うのは「ない」ことも価値だなと感じるのです。
建物が「ない」、娯楽施設も「ない」、冬に来て感じたのは「あたり一面の雪景色」
ただ、それだけ。
それでも、「ない」ということに感動している自分がいる。
普段わたしは関東に住んでいて、比較的場所や立地には恵まれている環境にいるけれど、その環境に「疲れる」瞬間が間違いなくあって。
そんなときに「ない」は一気に価値が上がる。
「ない」ことが癒しになる瞬間がある。
子どもは生まれた瞬間何も持っていない。
それでも幸せを周りに与えられる。
そんな感覚に少し近いのかもしれない。
私達は、おとなになってスキルも経験もたくさん荷物を抱えているはずなのに、自分たちに欠けていることを発見すると、それを「悪いもの」かのように捉えている感覚がある。
でも、改めて感じるのは、その「余白」は価値になる瞬間は確実にあるのかもと感じたりする。
「余白」を埋めずとも、そのままでも愛されたり必要とされる瞬間ってある。
料理が下手とか、掃除が苦手とか、事務が下手とか、そんな余白が人は「ほっと」する瞬間ってある。
雪に埋まって、どんくさいのをみて爆笑するだけで、それだけで相手に対する親密感が湧いたりすることがある。
人が人として価値を感じるのは、何かを持っている瞬間だけじゃない、「持っていない」「ただそこにいるだけ」を感じるときだって価値を感じることだってあるんだ。
会社員のとき、なにかなくなることがなんだか怖かったし、「余白」を生むことって恐ろしいことに感じていた。
でも、今フリーランスになって、「余白」が全然怖くなったし、むしろそこにすごくありがたさと価値を感じるようになった。
なにもないということは、価値になっていく。
実際私に相談をしに来てくれる人は、わたしがいろんな物を持っていたから相談をしに来てくれる人というのは今のところ少なくて、どちらかといえば、コミュニケーション力が昔はなかったとか、人間関係が苦手だったとか、キャリアに悩んで紆余曲折してきたとか、そういったわたしの「ない」に魅力を感じてきてくれる人が多い。
だからこそ、「ない」ことも価値だなと感じるのです。
もし、今「自分には何にもないな」と思って泣いている人がいるなら伝えたいのです。
「ない」は、価値があることにもなりうる。
たくさん、抱えていても使い切れなかったら意味がない。
道具箱の中に道具ばかり抱えて、本当に必要なものが見つけられなかったらそれはたくさんあっても、使えないものに変化する。
でも最初からないのであれば、選択できるものが価値になっていく。
道具箱の中に一つしかない自分が、それしか使えないことを磨いていけば勝ちになる。
そして、周りに余白があることにホッとしてくれる人も確実にいるのです。
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コーチングを学んで5年、組織のリーダーやマネージャーの方のお悩みに伴走して3年ほどになります。
200名以上のリーダーに伴走してきました。
今年、独立をしまして、人間関係にお悩みの相談、対人支援をしている人へのキャリア支援をメインに活動をしています