「誤解の余地」とその潰し方について
コンサルティングワークの現場において、ミーティングやインタビューなどの言語コミュニケーションの占める割合はかなり大きいと言えます。もちろん資料作成も重要で、ドキュメントに落とす書き言葉という意味での言語表現に関しても様々なノウハウが流通していますが、今回は主に話し言葉について考えたいと思います。
コミュニケーション能力というのは便利過ぎてあまり好きになれない言葉ではありますが、現代の業務環境において最も重要視されている能力の一つです。コミュニケーション能力が高いということは、質の高い効率的なコミュニケーションができるということです。逆に言えば、質の低い、非効率なコミュニケーションの失敗を避けることができるということになります。コミュニケーションの失敗には、その場で結果がわかるものと、わからないものがあります。言いたいことが伝わらない、理解してもらえないということがリアルタイムに把握できている場合、ストレスに感じたり人間関係が険悪になったり時間を浪費してしまったりという問題が発生しますが、問題の存在自体は明らかになっています。説明の方法を変えるとか、時間をかけて説明するとか、場合によって担当者を変えるなどすれば、それが解決したかどうかも判断ができます。この「わからない」ということがわかっている場合が、1つ目の、その場で結果がわかるものにあたるわけですが、ここではもう1つの方、その場では結果がわからないものについて考えたいと思います。
ある程度わかっているつもりでいるために、「わからない」とはなっていない場合です。つまり、「誤解」が生じているケースです。後で誤解であったことが判明する場合もあれば、最後まですれ違ったままの場合もあるかもしれません。こちらのケースでは、コミュニケーションを行っているリアルタイムの現場においてはストレスは生じていないことが多いと思われます。何しろ聞いてる方はわかってるつもりですし、言っている側も伝わったものだと考えています。しかし、互いの理解している内容は食い違っているので、後でそれが問題を生じる可能性があります。もしかしたら問題にならないかもしれませんが、問題になるようなものであった場合はその場解決することはできません。問題やその発生リスクが認識されていないからです。
コミュニケーションの失敗にはその場ではそうとわからないものがありそれは「誤解」と呼ばれる
誤解の発生源
この誤解はどのような形で発生するのでしょうか。一つには使っている言葉の意味が語り手と聞き手の間で食い違っている、ということが考えられます。同じ言葉を使って別のものを指していた場合、明らかに辻褄があわなくなるような発言でもない限り、そのすれ違いには気がつかないかもしれません。全く違うものを意味しているのであれば違いに気がつきやすいかもしれませんが、一方がもう一方よりも広い意味で捉えている、というような差異の場合は発見が難しくなります。このような行き違いを未然に防ぐため、プロジェクトの冒頭や都度のミーティングにおいて用語の定義の摺り合わせを念入りに行うことになります。(ちょっとわざとらしすぎて嫌がられることもしばしばですが)
食い違いが単語レベルではない場合にも誤解は生じます。いわゆる文脈の違いです。多数の業界と組織を相手に仕事をする場合、組織毎にもっている文化から個別の案件独自のそれまでに積み上げられた議論の履歴に至るまで、様々な階層に「文脈」と言えそうな情報が蓄積しています。それらを十全に共有できていない場合(限られた時間の中では当然限界があります)、同じことを聞いても受け止め方が変わってきてしまいます。また、業務の文脈だけでなく、語り手と聞き手の双方の個人としての来歴からの文脈もあります。これらの差異は、用語の定義だけを丁寧に追っても完全には払拭できません。
誤解は、単語レベルで起きる場合とそれを超えた文脈レベルで発生する場合があり、後者の方が取り扱いが難しい
誤解のタイプ
文脈由来の誤解が難しいのは、対応方法がはっきりしないということだけではありません。用語の意味については、異なる意味を割り当てているか、知らないかのどちらかです。知らない場合は、知らない言葉であることを認識した上で確認することもできますが(無知を明かしたくないので聞きにくいということはあるかもしれないですが)、それこそ文脈から推定することもあります。この推定は時として無自覚に行われるので、場合によってはそれも含めて単語の意味の勘違いになることもあるかもしれません。
一方、文脈の情報は対象がはっきりしないので、異なる意味を割り当てているかどうかも曖昧になります。文脈情報の不一致は、推定の仕方の違いとして表れることになるわけです。典型的なケースとしては、
語り手だけが知っている情報を前提とした表現を、「聞き手はその情報を知らない」ということを知らないがために採用してしまう
聞き手だけが知っている情報と食い違っているが、聞き手からは語り手がその情報を織り込んで発言しているかどうかが判断つかない
などが考えられますが、これらの所有情報の差異を検知することは、予めそのような差異がありうることを予期しておかなければ容易ではありません。
誤解は言葉にはっきりと別の意味を割り当ててることからだけでなく、異なる想定をしてしまうことからも生じるが、そちらの方が対処が難しい
想定の食い違いは避けられるのか?
当たり前のことですが、この食い違いを根絶することは不可能です。特に仕事上ということであれば、食い違いが必ず問題に繋がるとは限らないということも考えれば仮に防止できるとしてもそのための努力にには合理的な限界があります。したがって、諦める、という方針も十分あり得ます。それは大前提であるとして、理屈の上では他にどのようなことが考えられるでしょうか?
私は、文脈、背景情報についての推定を押し進めるというアプローチがあるのではないかと思っています。細かい言葉使いや言い回しについて、何故他の表現でなくそれが採用されたのか、ということを考えます。相手の言っていることを直接理解することに加えて、もしそれが相手の言いたいことなのだとして、相手の立ち場からそれを自分に伝えるためにこの表現が選択された理由は何かを考える、ということです。検算のような手続きです。こちらが受け止めた「言いたいこと」が受け手である我々にとって最良の表現であることは稀です。持っている文脈が異なるので。なので自分から見た最善解ではないこの表現が選ばれた理由があるはずです。その差分を説明する文脈の違い(解釈スキーマの違い、といった方が適切かもしれませんが)を想像してみると、言葉の使い方に対する彼我の差が見えてくるはずです。その差の在りようが納得のいく範囲に収まることもあれば、それだけでは説明できそうにない場合もあります。そういう場合には、その残った差を埋めるための情報を得るために文脈レベルの情報を質問などによって追加的に入手する必要がでてきます。
個人的にはこのような機序を持って誤解の余地を発見し、ミスコミュニケーションを防ぐことに成功した事例はそれこそ枚挙に暇が無いくらいなのですが、文脈の差を埋めるための質問というのは人によっては意図がわかりにくく嫌がられる可能性もあります。(それもあるので、いっそ諦めるのも手かなとも思うんですが)
結局のところ、こうした誤解の余地というのは、無自覚なものを含む推定の上に存在するものなので、完全な間違いとは言い切れないものが多分に含まれてしまうこともあり、円滑なコミュニケーションを害するものに見えるリスクもあるわけです。細かい差異など気にせず、打てば響くように了解してもらえた方が現場のコミュニケーションが上手く行っているという手応えも得やすいですし、そのことで好感を与え信頼を得ることで多少の行き違いは吸収できる様になる可能性もあります。
でも、誤解が生じてる可能性が目に入ってしまうと口を出したくなってしまうんですよねぇ