仕事術、3つめの神器を求めて⑥ 〜交渉術

しばらくノンシリーズ的な記事を書いていたのでいい加減連載も終わったのかという感じになっていたかと思いますが、もう少し続きます。一応また前回のリンクを。

今回のテーマは交渉術です。交渉事は私自身あまり得意ではないのですが、苦手意識があるからこそ事前の準備となりうる知識には一定の価値があると感じています。テクニックを実際に磨いてきたわけではないので、交渉「術」の神髄にはかすってもいないのですが、そのジャンルでそれなりに流通している便利な概念があるということは知っておいて損が無いと思うわけです。

ところで、交渉術と言った場合は、自分に有利な条件をもぎ取ってくるタフネゴシエーターの技、というイメージを持たれる方も多いのではないかと思います。あるいは、「ドア・イン・ザ・フェイス(あえて最初に無茶な要求をして妥協を演出)」とか「フット・イン・ザ・ドア(最初は簡単な要求を呑んでもらって断ることのハードルを上げる)」とかの似非心理学フレーバーのテクニックの類いを思い出す人もいるかもしれません。しかし、実際に例えばビジネス書などで語られる交渉術はそんなものばかりではありません。大抵の交渉術本は「他の本はそういう相手を打ち負かしてYESと言わせることを交渉と呼んでいる様だがこの本は違う」みたいな導入でスタートします。言ってみれば、最弱の仮想敵の扱いですね。

まず、交渉とは何か、ということから確認しましょう。手元の辞書の定義では、

ある事柄を取り決めようとして、相手と話し合うこと。かけあい。談判。

精選版日本国語大辞典

ある事を実現するために、当事者と話し合うこと。かけあうこと。「━が決裂する」「労使が━する」

大辞林

となっています。取り決めによって何かを実現するという社会構成主義的な雰囲気がありますね。当事者の合意の上にはじめて何かが成立するわけです。交渉術なるものを検討する上では、これらに加えて「互いに拒否をする権利をもつ当事者たちによってなされる」という条件なり性質なりを意識した方が良いと思います。辞書の定義には含まれていませんが、実態としてそうなっていますし、当事者が話し合わないと実現しない、ということが拒否権の存在を暗黙的に示しているとも言えるはずです。この前提は、交渉をうまく進めようとした場合に有用です。(本当は)自分がいつでも降りることができるということを確認して気持ちを落ち着かせたり、相手側にとってのリスクを把握する視点としても機能します。逆に、相手側を無駄に追い詰めず自分が自体をコントロールできている、という気持ちになってもらうことが有効なケースもあるでしょう。

まずは古典的名著が何を言っているか

このジャンルで古典的名著とされるものはおそらくいくつもあるのですが、中でも目立つのが『ハーバード流交渉術』(GETTING TO YESは原題です。すごい訳というか邦題ですよね)です。

内容としては、それまでの交渉を相手との関係を重視する「ソフト型交渉」と自身の利害を強力に押しつけていく「ハード型交渉」のどちらかであったとした上で、そのような対立構造を脱却してゼロサムではないウィンウィンな合意形成を求める「原則立脚型交渉」を行おう、というようなものです。

そのための原則として、

  1. 人と問題を切り離す

  2. 立ち場ではなく利害に焦点をあてる

  3. 相互利益を生む選択肢を生み出す

  4. 客観的な基準を使用する

ということをうたっています。大事なことを言っているのはわかりますが、ちょっと行儀が良すぎるという印象も拭えません。実際、この本よりも後に書かれた交渉術本では「生ぬるいウィンウィン主義」みたいな形でやり玉にあげられたり、この本の題名にYESとあるのをあげつらって、「本当に大事なのはNOの方だ」みたいな主張がされていたりします。それだけ、議論のベースとして価値がある書籍だったということだとも思います。(また、そのような議論が実は1980年代でもまだ新しいアイディアとして受け入れられてたというのも個人的には面白いと感じました。こういうことは古代ギリシアあたりですでに言い尽くされていて、せいぜいルネサンス期か19世紀あたりに逆張りのブームがあった、ぐらいのものなんじゃないかと思っていたので)

覚えておくべき用語2つ

姿勢や志についてはひとまずおいておくとして、このハーバード流の本の中で面白い用語が定義されています。こういう概念は定着しやすいので、交渉的な状況に身を置いたときに思い出せるようにしておくのが良いと思います。

一つ目はBATNA(Best Alternative to a Negotiated Agreement) で「バトナ」と読まれるみたいです。これは、目の前の相手との交渉が決裂した場合に自分が取れる最良の選択肢のことです。例えば車を下取りに出す際の価格交渉で、まず1軒目の中古車ディーラーに査定を出してもらったとします。その条件をキープしておくことができるのであれば(通常は口頭でその場で決断した場合の価格と言われても実際にはしばらく有効だったりするのではないかと思われます)この金額が2軒目の中古車ディーラーとの交渉の際にはBATNAとなります。2軒目では相手の担当者が1軒目の条件を下回る提示しかしてこなかった場合は即座に気持ちよく断れるという状態で交渉が可能になるわけです。これでより良い条件を引き出した場合は、今度はその新しい条件がBATNAになります。3軒目ではそこをベースに交渉ができますし、1軒目に再交渉を持ちかけることもできるかもしれません。

二つ目はZOPA(Zone of Possible Agreement、合意可能領域)で「ゾーパ」と読むそうです。自分が180万円以上なら売っても良いと考えていて、相手が200万円以下なら買っても良いと考えている場合、180万円から200万円がZOPAとなるわけです。自分の180万円がその時の自分のBATNAということですね。逆に200万円というのは相手のBATNAからくる値です。もちろん交渉中にはっきりとそうわかるわけではありません。(というか、最終的な決断は感情に大きく寄るものですから、本当のBATNAというのがそこまで確固たる値としてあるかというと疑問は残ります)。しかし、相手にもどこまで明示的に意識してるかはともかくBATNAがあり、それによってZOPAが決まるという考え方自体には有用性があります。BATNAの上をどこまで頑張るかという手がかりにもなりますし、そもそもZOPAが存在しないと判断できれば交渉自体から撤退するという判断を合理的に下すこともできます。

実際の交渉は単純に金額だけで一次元的に成り立っているものではありません。もちろん感情面の問題もありますし、その他の付帯的なメリットやデメリットもあるわけです(実績とか信用とか)。すべてを機械的この枠組みに押し込めることが常に正解とは限らないかもしれませんが、この物差しで考えるとどうなるのか、ということを意識できることには意味があります。

その他の書籍など

最近読んだものでこのジャンルで面白かったものとしては、

FBIで人質交渉の現場にいたというなんとなくオーバースペック感が漂う著者による交渉術本です。戦略的に相手にノーと言わせることの効用や、オープンクエスチョンで相手に自分の側の問題解決を迫るテクニックなどについて書かれているのが面白かったです。

若い人には、

の方がハーバード流の本を読むより、その使い所も含めてしっくりくるかもしれません。この本ももう10年以上前なんですね……

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