パフォーマンス志向から逃げ出すためのたった一つのくせに冴えないやり方 ~~タイパとかコスパとかあまり言いたくない
ビジネスの文脈では「パフォーマンス」という言葉は実績や性能という意味で使われます。一般には、演劇やダンスのようなものを意味したり、あるいは単純に人目を引くための派手なアクションを指したりすることもありますが、それとは違う意味になります。あまり歓迎されていない様に見える若者言葉として「コスパ」「タイパ」なるものがありますが、省略前の「コストパフォーマンス」「タイムパフォーマンス」の後半部分はこの語義に則ったものだと考えられます。実際に得られるもの、と、その効率性、を指しています。他にも同様に以前ほどは素直に賞賛の文脈では使われなくなった「生産性」などもこの意味でのパフォーマンスに通じます。
これらの単語は皆、まず戦略的に重視すべき指標として提起され、ほぼその直後から短絡的で近視眼的なコンセプトとして攻撃の対象になるというコースを辿っている、という印象があります。確かに「得られるもの」として目標に据えるべき結果指標だって色々あり得る上に、単純に単一の投下材の量で除算して傾きを求めただけのものを金科玉条の様に扱うということには抵抗があります。集団をそれなりの期間にわたって誘導しようとするのであれば、それくらい単純な旗印が必要だということには、もしかするとそれなりの賛同を得ることができるかもしれませんが、こうした指標は得てして一人歩きしがちなものであり、誰もが組織のリーダーを務めているわけでもありませんから、感情的な攻撃にさらされる様になるのも不自然な話ではありません。
個人の趣味としては、この様な単純すぎる指標には抵抗したい。コスパとかタイパなんかを気にしていない器の大きい(というかせめて、小さくはない)人間だと思われたい。何より自分自身がそう思いたい。しかし、考えてみるとこれらの指標に抗うというのは(少なくとも私の様な人間にとっては)それほど簡単なことではありません。
仮にここで、私がコスパを気にしない人間である、ということを立証するプロセスを考えてみます。理想的にはある目的をかなえるための選択肢が複数あって(仮にここでは簡単のために2つであるとしましょう)、それらの選択肢が要求するコストには差がある。ここで、よりコストが大きい方を選択すれば、「コスパにとらわれない人」の評価に近づける気がします。しかし、その評価は確実なものではありません。まず評価者に、私がこの仮想の条件をその通りに解釈していることを理解してもらう必要があります。単にそちらの方が得られるものが大きいと感じたから選んでいると思われても、コスト算定がそもそも間違っていると思われても私のもくろみは失敗します。後者の場合は、主観的にはコスパ重視であるにも関わらず結果高コストな選択をした残念な人という、ほとんど逆効果と言っても良い事態を引き起こすことになります。つまり、「高コストな方を選択をする」だけでは不十分で、「(評価者から見て)妥当なコスト見積能力や判断能力を持つことを示す」必要もあるわけです。これは苦しい。なぜなら、コストを気にしない人間だと思われたいのに、コスト見積能力を示さなければならないわけです。能力を示すには実際にやってみせる必要があります。この場合それはつまり実際にコストを見積もるということです。一般にそれは「コストを気にする」に含まれる活動です。
しかし、さらに、その条件が仮にクリアされたとしても、まだ求める評価に到達できるかというとそうではありません。今回の選択が偶発的なものに過ぎない可能性があるからです。たまたまその件についてだけは、高コスト側を選択しているが、他の課題についてはコストばかりを気にしている人間である可能性が残ります。たまたまではないことを示すためには、一貫してか、あるいは少なくとも統計的に有意な頻度で「高コストな方を選択する」必要があります。本当は何も気にせず同様に確からしい頻度で高コストと低コストを選択することが真に「コストを気にしない」姿なのではないか、という思いがありますが、それでは立証は難しい。評価者がどこまでの範囲で統計を取ってくれるのかもわからないわけです。(冷静な判断としては、おそらくは誰かが丁寧に統計を取ってくれるという事態は決して生じません。さらに冷静な判断として、そもそも、我々のコストコンシャス度なんてものに興味をもって評価を実施する他者というのは存在しない可能性が高いです)
つまり、この課題に合格ラインというものはありません。
となると、やれることは1つしか残されていない。それは、コスパ重視の人達と同様に(心理的コストを払って)コスト見積を実行し続け、その上で常に一貫して「高コストな方を選択する」というベストエフォート型の戦略です。これを宣言します。宣言すれば、低コストのものを選択すれば戦略の不徹底の謗りを甘んじて受けなければならなくなります。その分、評価も素早く受けられる可能性があります。
「最近の若い人はコスパとかタイパとか言っちゃって、なんかケチくさいし寂しいよね」みたいなカジュアルなDisりはもはや許容されません。コスパ厨・タイパ厨を下げたいのであれば自らも修羅になる必要があるのです。それが残されたただ一つの道です。なので、私は上記のような若者批判からも背を向けてこっそりと生きていきたいと思います。したがって、正しいサブタイトルは、「コスパとかタイパとかあまり言いたくない……とかすらも本当は言いたくない」となります。お粗末様でした。