「越境者のカナヅチ」 〜人は最初に超えた境界に縛られやすい
中学の卒業間際、放課後になんとなく学校に残ってダラダラと喋っていた時に、その場にいる十人程度のメンバーのほぼ全員が「転校経験者」であることが判明して盛り上がる、ということがありました。転校経験者一般の比率もわかりませんし、その程度のサンプルでは統計的に意味のあることは何も言えませんが、妙な納得感がありました。地元のコミュニティに溶け込み切れずにあぶれたもの同士が集まった、という意識は特になかったのですが、転校を経験することで対人関係における距離感が影響を受ける、ということはあってもおかしくないような気がしたものです。
私の転校は同じ県内でしたので、異なる文化や風土に戸惑ったということはありません。遠くの地方ですと方言の問題もありますし、帰国子女であれば言語も文化も全く違う環境への適応を余儀なくされます。そうした差の大きさによって見える風景は大きく違っていそうではありますが、どのケースでも最初は外部の人間と見られることは同じです。そして、現地の集団をある種客観的に眺めることになります。
集団を眺めると、その外部との違いに目が行きます。結果的に、「○○小学校には明るい人が多い」とか「日本には○○な人が少ない」とか、っていう割と強い(強すぎる)仮説を思い付きます。大規模な調査をすれば否定されるかもしれないような仮説であっても、個人の視野で観測される範囲であれば良く観測事実と適合する、という状態は生まれやすいですし、何よりまだお客さま扱いで現地に溶け込めてない不安定な状態では、そうした思索に耽溺しやすいということもあると思います。何より、以前の環境と現在の環境の両方を経験しているのは自分だけなわけです。
よく2つの得意領域があればかけ算で人材としての希少性が跳ね上がるからキャリア戦略としてお勧め、という助言であるとか、π型人材などという言葉があったりしますが、越境によって2つの環境を知り、それを比較できるということは、かなりの希少性を感じさせます。新しい環境で不安を感じる中で、これは大きな希望になりえます。
そのためか、転校のような越境を経験した人は、「越境者であること」をアイデンティティの中心におくことが少なくないように思います。
これは転校や引越などの物理的な移動に限りません。専門を途中で変える、転職して他業種にキャリアチェンジする、などの状況においても、越境の経験は大きくその人の意思決定を規定しそうです。
マズローも、「ハンマーしか持っていなければ、全てのものをクギのように扱いたくなるでしょう」というような意味のことを書いているそうですが、越境を経験すると多くのことををその環境の差で説明したくなります。
出羽守、という、ネガティブな文脈で使われる言葉もあります。やたらと外国の事例を引くことで嫌われる、というのは、越境者自身が体感しているほどの説得力が原因を環境差に求める言説にはなかなか備わっていない、ということもあるのではないかと思います。
例えば私自身は「ファーストジェネレーション」という奴で、直系尊属に大卒者がいません。学のない家から大学院まで通わせてもらった、ということになります。それほど成功しているわけでもないので、家族や親戚を卑下したくなるような気持ちは持ち合わせていませんが、いわゆる「実家が太い」人達や祖父母の代から大卒揃いというような人達との付き合いが増えていく中で、自分の視座の独自性の根拠をファーストジェネレーションであることに求めたくなるケースは度々ありました。しかし、これまで私の意見に耳を傾けてくれた身近な人達、友人や仕事仲間は、恐らくそんなことを評価した上で話を聞こうと判断したわけではないと思います。
越境者であることは(π型人材的な意味で)有利なことが多い資質ではあると思います。しかし、それは明示的に発言の根拠/後ろ盾とすることは難しく出羽守扱いされるリスクと見合わない、という点に留意しないと、単なるハンマーしか持っていない人(むしろ視野が狭い)と思われてしまって損をするのではないでしょうか。
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