履歴書⑩ひつじ日本のパティスリーで働く~前編~
すっかりnote更新していませんでした!今年は自分でも予想以上に色々なお仕事をさせて頂いて、改めてこういうスタイルのパティスリーは自分に合っているのだな、と感じています。
開業前は雇われの身だったので、日々シェフや会社の求める物のお手伝いに時間を使っていたわけです。そんな働き方が私には多分、とても、むいていなかったと思います。拙い人生ですが、その中で最も辛い時期だったと思います。
というわけで、今からそんな日々をたどりたいと思います。10~15年前は今、社会問題になっているような働き方が当たり前だった時代なので、ここに書く人達を私は責めたり恨んだりしている訳ではありませんし、この経験があったからひつじ製菓を始める事が出来たと思っているので感謝すらしています。
こんな時代もあったんだね~、と読んでいただければと思います。
日本のパティスリー・その1
記念すべき最初のお店は多摩市にある個人店のパティスリーで2006年の9月頃から私は働き始めた。
ル・ジャルダンブルーというパティスリーでシェフはクープドモンドの日本代表にもなったことがある経歴の持ち主だった。
シェフは普段は温厚なのだが、厨房に入るととても厳しい方だった。飲食店であれば、そんな事は当たり前の時代だったが、最初に働いたアオキシェフがそんなタイプでは無かったので、私にとっては初めての体験で仕事中はとても緊張していた。
私は経験は浅いのだが、「フランスのサダハルアオキで働いた人」という事でシェフをはじめパティシエの皆が、私の作業を注目していた。大変なプレッシャーである。普段から物覚えが悪い私だが、厨房の雰囲気はいつもピリピリしていて私語など出来る雰囲気ではなく、そんな空気感が余計に仕事に集中出来ず、些細な失敗をよくしていた覚えがある。
シェフとスーシェフの関係性もあまりよくなくて、裏の倉庫で大きな物音がすることも日常茶飯事だった。お店はいつも忙しく、いつも心臓がきゅっとした状態で働いていた。
しかし、相当辛いであろうと覚悟をしていたので不思議と「辞めたい」とか、「朝早く起きるのが辛い」とはあまり思わなかった。給料はたしか、12,3万円くらいだったと思うが、家賃、生活費を払ってわずかに貯金まで出来ていたし(われながら優秀だ!)、週1の貴重な休みも家事をしたり東京の中心地まで遊びに出かけたり、それなりに充実した日々を送っていた。
9月頃から働き始め、死ぬほど忙しいクリスマスも無事に終え、やっとパティシエらしき物になれたなぁなどと感じ、新しい仕込みもこれからと色々覚えていくのだろうなと思っていた。
そんな時、パリのアオキで一緒に働いていたウジタさんから連絡あった。
ウジタさんは帰国後、神奈川県の鎌倉に新しくオープンする「パティスリー雪乃下」のシェフになっていた。
オープンして間もなく、新入のような子ばっかりでスーシェフ(副料理長)が居ないから、私にやってみないかという誘いだった。
やっとジャルダンブルーでの生活に慣れてきた頃だったので、少しだけ悩んだがスーシェフという地位に惹かれたというよりも、「鎌倉に住みたい!」という気持ちでいっぱいになった。
私は古い町や歴史にとても興味があり、過去に京都、パリに住み次に鎌倉住むのはとても自然な事だったかもしれない。そして、改めて私はとても運がいいと思う。
ジャルダンブルーのシェフには、色々と無理を聞いてもらって働かせてもらったので、この事を切り出すのはとても申し訳なかった。
意を決してその事を伝え、辞めさせて欲しいとお願いするとシェフは「すごいやん!!引き抜きやん!やりたい場所があるなら、そこで頑張った方が絶対にいいよ!」
と言って下さった。
という訳で、私はあっけなく多摩市から鎌倉に引っ越した。
日本のパティスリー・その2
鎌倉は「鎌倉時間」という言葉どおり、まさにそういう時間が流れている。
私は鎌倉がとても気に入った。お寺も古い家も多く、町の雰囲気はのんびりとしていてリゾートっぽさと適度な田舎の中に、おしゃれ感もあり、すぐ目の前に海と山がある。そしてちょっとした気になるお店も多い。
パティシエの出勤時間は早朝なのでサーファーにもよく遭遇した。海町育ちの私だが、地元ではありえない光景で太平洋と日本海の違いを感じた。
そんな鎌倉でオープンしたてのお店「パティスリー雪乃下」で、パティシエ経験年数わずか2年半ほどの私がいきなりスーシェフをやる事になってしまった。
鎌倉はご存じの通り、有名観光地なのでお店は今まで経験した事ないくらいそれは、それは忙しかった。ウジタさんも色々な雑誌に取り上げられ、観光客ではないスィーツ好きの人やプロも沢山来た。
ジャルダンブルーではシェフも仕込みの一員となって働いていたが、ウジタさんは新商品を作る時や本当に忙しい時のみ厨房にいて、日々の作業は他のパティシエにまかせていた。
当時のウジタシェフは細かい事をいちいち指導せず、目的とする事のみを告げて、その過程は本人に任せる、というスタイルだった。
そういうやり方が向いている人と向いていない人がいると思うが、私は多分向いていた。
私の場合、1から10までやることが決まっていてそれに沿って作業するというのが、ものすごく苦手だ。まず、誰かに決められた作業を順に覚えられないし、一個づつの作業を間違えてはいけない!という事ばかりに囚われて、肝心の目標とする事にたどりつけないので、仕事が全く出来ない。
そんな私は、比較的向いている仕事場で、スーシェフという位置を与えられたので、まずはほぼ全ての部門の作業をひたすら覚え、新しく入った人に教えたり、サポートしたり、見守ったり、超苦手な叱咤と激励したり作業計画を立てたりしていた。
当時は指示の仕方、教え方も本当に下手くそだった為、きっと私に腹を立てていた後輩は少なからずいたと思う。
雪乃下はお店だけでなく、新宿伊勢丹や品川の催事に出店したり、東京の世田谷に姉妹店がオープンしたりと、それは目の回るような日々だった。
忙しいけれど、人間関係はまぁまぁ良好な方だったと思うし、大変な日々やピンチをみんなで乗り越える達成感は嫌いでは無かった。休みの日は自転車に乗って鎌倉中を巡り歴史的なものに触れて、それは楽しかった。
そんなある日だった。急に私の体に異変が起きた。最初なんとなく変な感じがする、といった程度だった。
左耳を塞がれたような感覚があったが、すぐに元通りになったのであまり気にしていなかったのだが、その感覚が頻繁につきまとうようになった。
最初は少し籠もる程度だったのが、音が聞きづらくなったりするようにもなった。耳鼻科に行き聴力検査をすると低い音が聞き取りにくいということが分かったが、原因不明という事で「多分ストレスからくる物でしょう。働き過ぎなのでしっかり休んだ方がいいですよ」とお医者さんから言われた。
しかし、耳以外の体は元気だし、まとまった休みなど取る事は考えられずそのまま、忙しい生活をしていた。
その後、耳の症状は次第に悪化していった。耳鼻科も何件も回ったが結果はいつも同じで「ストレスからくる物」で片付けられた。
ネットでも同じ症状の人がいないか調べると、どうやら私は「耳管開放症」という病名の物になっているようだった。
その頃の症状は、自分の声が自分の体の中に籠もって反響して聞こえるので普通の声でしゃべっていても大音量で聞こえたり、ひどい時は自分の呼吸や心臓の音までが耳元で大きく聞こえるので、他の事に集中出来ず、ひどい不快感に悩まされる。
耳管開放症については、また違う記事で詳しく書きたいと思う。
そんな、耳を抱えながらも多忙なお店で3年半ほど働いた頃、雪乃下での私の目標が何を目指して頑張ればいいのか、分からなくなっていた。その頃のお店はもう私が居ても居なくても十分に回る状態だったし、「ここに居る意味」が分からなくなっていた。
悶々とする中、やりがいを感じる事も少なくなり、耳の状態も深刻だった。そして絞り出した答えは「休もう」だった。
体調のせいで辞めたいというのが、何となく悔しいというか、恥ずかしい気持ちだったので辞める理由は「フランスでまた勉強したい」という事にして辞めた。
以前のnoteを読んで下さったは察したと思うが、私は事あるごとに逃亡理由に「フランス」を使っている。
私が辞める時、三番手の後輩から「雪乃下のお母さんが居なくなったらみんなヘロヘロになっちゃいます!」と嬉しい事を言ってくれたが、「今度は君がお父さんになる番だよ!」と励ました。
そんな彼も現在は、長野県でパティスリーをやっている。
そして、私はフランスへ2度目の逃亡をしたのであった。
おわり