エジプト旅行記⑦ 〜ツタンカーメンの秘宝〜
私は今、ドイツのデュッセルドルフという所に住んでいます。住み始めて半年が過ぎた所です。オランダやフランスは、隣の県に行く位の感覚で行けます。こうして日本を離れ、異文化に触れることでの学びは多く、今まで当たり前だと思っていた事がそうではなかったり驚きも多いです。
中学からでしょうか、世界史の勉強が始まりますが、あの頃に何を学んでいたのかを今、やっと理解し始めました。学びには実感や共感が大事である事を感じています。そこにリアリティが無ければフィクションに過ぎず、自分ゴトまでは昇華されません。
私はドイツに来られて、そして近くの国に行く事が出来て本当に良かったと思っています。世界の広さを知ったからです。そして、この事を言葉にしたいと思うようになり、このノートを開設しました。自分にとっての健忘録として、そして読んで下さる皆さんにも楽しんでもらえたらと思います。
ツタンカーメンについて
今回はエジプトの考古学博物館にある、ツタンカーメンに関する物について書いていこうと思いますが、先にツタンカーメン王墓発見当時のお話をします。
1922年11月1日、イギリス生まれのエジプト考古学者ハワードカーターは王家の谷でラムセス6世王墓のふもと、北東あたりの新調査にとりかかりました。そこには、ラムセス6世の王墓を作る際に出たがれきが積まれていました。まずはがれきを取り除きながら掘る作業が進められ、ラムセス6世の王墓入り口から1メートル弱低い所で何やら階段らしき物を見つけます。11月5日、カーターはそれが王墓の新発見に繋がるものだと確信したそうです。
掘りすすめると階段は下へと16段続き、やがて漆喰で固められた扉を発見しました。階段下に現れた扉は第1の門と呼ばれ、厚さは1メートル弱程あります。
11月5日、カーターは自分達が埋もれていた階段の上部を発見したのだと確信を持った。一段、また一段と階段があらわれ、やがて、漆喰で塗り固められ、封印の跡を残した入り口が目の前に姿を現した。封印は、王家の墓所の印で、ジャッカルと9人の囚人をあらわしていた。11月26日、カーターは、ツタンカーメンの印と王家の墓所の印で封じられた第2の入り口に到達したのである。
ーエジプト考古学博物館・公式本よりー
ジャッカル、つまりアヌビス神の印で封印された扉とありますね。どの様な感じだったのかとても気になります。26日には第2の門を発見したと書いてあります。第2の門の先は前室と呼ばれている部屋で、現在ではツタンカーメン王のミイラが展示されている部屋になります。
こちらが当時の前室の白黒写真と、カラー復元された写真です。玄室を背に撮られていてます。左側の手前の壁が直角に曲がり画角から切れていますが、その先は入り口へ繋がる通路です。写っている物はファラオが乗った馬車の車輪や葬送用のベッドで、これらは考古学博物館で実際に見ることができます。埋葬品がぎっちりと詰まっている様子が分かりますね。
こちらがツタンカーメン王墓の断面図です。2が前室で、5が玄室です。玄室がツタンカーメンのミイラが納められていた部屋です。
玄室の内部の紹介をしていきますね。
玄室はツタンカーメンのミイラを守るためだけの部屋で、部屋いっぱいの大きさの箱の中に箱があり、その中にもまた箱があり…その中に棺があり、その中にもまた棺があり…一番奥に黄金のマスクを被ったツタンカーメンのミイラがあるという感じに、7重構造でツタンカーメンを守っていました。
そして、身体中に黄金の装飾品、指輪や指サック、腕輪、ネックレス…あらゆる装身具と護符で覆い尽くされていました。その価値を金額で表すとすれば、国家予算レベルの金額になるとかならないとか…とにかく、厳重に厳重に埋葬されていましたが、人型の棺の図解は以下のようになっています。
図では第一〜三のミイラ型棺と書いてありますが、この様に納められて珪岩製の石棺に入っていました。現在、王家の谷に行くと石棺と第一の棺が置かれています。その他の第二、第三のミイラ型棺は考古学博物館で見られます。
そしてミイラ型棺を納めた石棺はさらに四重の厨子(ずし)に納められ、玄室をいっぱいに埋め尽くしていました。その様子は、王墓の断面図にてご覧ください。一体どうやって入れたのでしょうか…この厨子も考古学博物館に展示してあります。
玄室のその奥には、財宝室がありました。財宝室の中に納められていたものはアノビス神の厨子や複数の船形のオブジェなどなのですが、1番重要なものはカノピスです。
カノピスとは死者の内臓を入れる為の壺で四つ揃いです。詳細はWikipediaをご覧ください。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%8E%E3%83%97%E3%82%B9%E5%A3%BA
ツタンカーメンの内臓はアラバスター製のカノピスに納められていました。内臓を体内に残したままではミイラが腐敗してしまうため、別に保存が必要でした。
古代エジプトの生死感
少しツタンカーメンから離れてお話ししたいと思います。古代エジプトの宗教は多神教であり、また太陽崇拝が基本でした。それは生死感にも大きく影響していて、太陽が東から昇り西に沈む、そしてまた東から生まれ変わって昇ってくる様に魂もまた死んだ後、再生復活をすると信じられていました。
死者の書というものがあります。死者が埋葬される際にはお墓に納められたもので、パピルス紙の巻物です。ここには死後に楽園にたどり着くまでの方法や死者を守る為の様々な呪文が書かれているそうです。死者は死後の世界を旅し、いくつかの関門を抜けて命の裁判を受け、善人は楽園へ悪人は心臓を食べられてしまうというものです。
善人の魂はアク(死者の概念の1つ)となり楽園アアルで永遠に生き続けます。生者は肉体にバーとカーが入った状態で、カーが抜けると人は死に至るとされました。そして、楽園にてバーとカーが再び結びつくとアクになります。
…次の記事で説明させてください。今回はとりあえずサラッと読んで頂くよう、お願い致します。
そしてこのバーなんですが、死後も死者の体に戻ってくると考えられていました。なので死後も死体の保存が重要であるとなり、古代エジプトではミイラ作りが必要であったのです。
…次回の記事できちんとまとめたいと思います。スミマセン。
ファラオとしてのツタンカーメン
ツタンカーメンは9歳でファラオになりましたが、その2年前に父親が亡くなりました。父親は異端の王と言われたアクエンアテン(イクナテン)です。アクエンアテンは生前、宗教改革に注力していました。この辺りの事は1つ前の記事に書いていますので、お読みください。
事実上、父親が残したものは負の遺産になってしまい、ツタンカーメンがファラオ就任直後まずやらなければならない事は父の宗教の廃止とアメン・ラー信仰の復活です。また首都はアマルナでしたが、テーベに戻します。
しかし、この様な政治的な判断を9歳の少年ができるはずもなく、実質実権を握っていたのは家臣のアイでした。アイはツタンカーメンの祖父の時代からファラオに仕えていた人物で、ツタンカーメンの死後、ツタンカーメンの妻・アンケセナーメンと結婚し王になっています。また、アクエンアテンの妻・ネフェルティティの父親でもあります。もうぐちゃぐちゃ…笑
ツタンカーメンは18歳、もしくは19歳で亡くなっています。権力争いの醜さが出ていますが、ここは謎を紐解く歴史のロマンと捉えて頂きたいところです。
まとめ
トトメス、ハトシェプスト、アメンホテプ、アクエンアテン、ツタンカーメン、ネフェルティティ、アンケセナーメン…約260年強の第18王朝には有名な人物が沢山登場します。領土拡大に成功し、沢山の神殿やオベリスクが作られ栄華を迎えます。権力も財力も最高潮に達すると、やがて抵抗を示す動きが生まれます。アクエンアテンが仕掛けた改革は残念ながら失敗に終わり、王朝は衰退していきました。まさに盛者必衰です。
長々とお読みくださりありがとうございました!次の記事では、エジプト考古学博物館にあるミイラ室の説明と、エジプト文明における生死感について書きたいと思います。
ありがとうございました。