あの時、何ができたんだろう(第3話)
【前回の記事】
東日本大震災の後日のニュース。どこかの飲食店で帰宅難民に方が飲めるようにと給水所を店先に作っていた。このニュースを見た私は、私にも出来たことがあったと気付かされた。
【一体何ができただろうか】
このニュースを見た後、すぐに考え始めた。あの時一体何ができただろう。
帰宅難民者が求めていたものはまず食べ物と水。そしてニュース、あとトイレだ。今だったら携帯の充電スポットやWiFiも欲しいところだろう。もしかしたら怪我をしてる人もいるかもしれない。
兎にも角にも、場所を持っているのであれば臨時の避難場所として機能される事ができた。オーナーではない私が、実際問題としてどこまで実行できたかは分からないが、もし今後おなじ様な事が起こってしまった時にはより多くの選択肢を持てるように、様々な想像を巡らせていた。
【私に出来ること、そして過去】
この時、私が想像の中で考えていたことはまさに他人からのニーズを探すという工程だった。この時、人生で初めてそんなことを考えたかもしれない。
当時26歳だった私は、これまで自分が心惹かれることで進む道を決めてきた。何に心惹かれるか、確かにこれが1番大事な事だが、これだけしか見ていないと物事の本質にはたどり着けないものだ。なぜそれが好きなのかという根源まで突き詰めないと、結局のところ本当に自分がしたい事が何なのか?という人生の問いの答えまでたどり着けない。
・過去を振り返る
初めてお給料を貰ったのは高校生の時のアルバイト。学校の近くのバーミヤンだった。学校はアルバイト禁止だったので、内緒で働いていたのだが、先生に見つからないようにキッチンで応募した。それが高1の夏休み、バーミヤンでのバイトは高校の卒業式の前日まで続けた。
高校卒業後すぐに医療事務に就職したが、病院の雰囲気が苦手で試用期間のうちに辞退した。今考えても辞めて良かったと思えるような病院だったが、私が未熟過ぎだったのも事実だ。
病院を辞めて私はすぐに飲食業に戻った。飲食店でのアルバイトは固くなくて単純に楽しいものだ。マック、ミスド、居酒屋、バー、スナック…様々なスタイルの飲食店で経験を積んだ。接客がメインだったが、人手が足りなければキッチンを担当することもあった。もともと料理は好きだったので、飲食店で働く事は全てが好きだった。
書くのを忘れていたが、この時点で私は茨城の水戸市に住んでいた。高校卒業後、彼氏と同棲をしていて結婚も視野にお付き合いをしていた。
・音楽
趣味の一つに音楽があった。親の影響で私たち姉妹は(私は三姉妹の末っ子)子供の頃からジャズを聞いて育ち、1番上の姉は茨城でジャズシンガーをしている。姉の繋がりもあり、水戸にあるライブバーでアルバイトを始めた。確か20歳くらいのことだったと思う。
この頃は、実に平々凡々と暮らしていたものだなと思う。飲食店のアルバイトを2カ所、多い時は3カ所掛け持ちし、彼氏といつか結婚して普通の家庭を作るんだと思っていた。
・友達が就職を始めた
22歳。私の高校は一応進学校で殆どの同級生は大学へ進学していた。22歳になると周りは就職し始めるわけだが…。当時はmixiというネットのコミュニティサイトがあった。今でいうFacebook。mixiの投稿で、同級生たちがどんどん立派になっていくのを見ていった。それまでは一足先に就職していた私の方が華やかな生活だったが、それが一変!先生になる人、有名な企業に入る人、県庁で働く人…いきなりスーツを着出して、立派な大人になっていた。
そんな同級生たちが堂々としているように見えて、自分が高校の時から何も変わってない事に気付き上京する決意をした。
・ジャズバーで働く
その後、茨城でお金を貯めて23歳の終わり頃、上京する事になる。東京に来てまずは職探し。ジャズバーで働きたかった私は、ネットでジャズバーを検索し、ヒット項目を上から順番に電話をして、アルバイトの応募をした。そして、すぐに働き口が決まった。
代々木のNARUと言うお店と六本木のAll of Me clubだ。二店舗を掛け持ちして働いた。一年後、代々木のNARUのオーナーに誘われ、姉妹店の営業を任される事になるのだが、それまでの1年間はとても楽しかった!毎晩、ジャズの生演奏を聴きながら仕事ができるんだから。この時、知り合ったミュージシャンが沢山いる。そしてその方たちとは今でも交流がある。私の父はジャズが大好きなので、家族ぐるみでファンだったりする。
・vassoniel
上京2年目、私は小さなバーの店長を任せられた。代々木NARUの姉妹店vassonielだ。そしてこのお店が私が震災を経験したお店。高校からvassonielに辿り着くまでを書いてきたが、我ながら何も考えずに良くここまで来たなと、むしろ感心する。アホの極みの様な私も温かい目で見守って下さった方々に改めて感謝申し上げます。
【鳴かず飛ばすな時期】
vassonielで働き始めたのは25歳の時、震災が起こる一年半前位だったと思う。これまで、本当にノリでしか生きてこなかった。なんとなく楽しい方を選んでいた。そのくせプライドも高くて、全てを知った風な感じだったと我を振り返る。
vassonielの売り上げはずーっと悪かった。黒字を出せたことは無かったと思う。その理由を今では分かるが、当時の自分は知らなかった。売り上げが悪いのは地下という立地のせい、景気が悪いせい、お店の設備のせい…本当にそう考えていた。これでは営業が上手く行くわけがないのである。
・そんな時に東日本大震災
その後、お店は以前にも増して暇になった。しばらく自粛モードだったのを覚えているだろうか?あの時、飲食店は大打撃を受け沢山のお店が潰れた。中でもジャズバーのような客単価も高く、食べ物がメインでないスタイルのお店への被害は甚大で、東京では伝説的なお店がいくつも無くなってしまった。(私が働いていたNARUとAll of Meは今も営業しています。)
・責任者であるという自覚
vassonielをやってみない?と、オーナーから誘いを受けた時、二つ返事でやります!と答えた。
お店を任されるという事がどんな事なのか知らなかったからだ。まさに怖いもの知らず。だから、簡単に引き受けられたのだ。なんだか楽しそうで、店長とかカッコいい!なんか認められたような気がする。本当にこの程度の事だった。責任者の自覚など1ミリも持っていなかった。
お店の売り上げが悪い理由が何なのかなんて考えてこなかった。お店のことだけじゃない、それまでの私の生き方そのものを考えた事が無かった。
そして震災があり、やっとニーズというものの一片に触れ始めた。あと、震災後に行った行きつけのバーの存在も大きかった。どんなニーズがあるのか?と考える時に、答えを出す1番の方法は自分がまずお客さんになる事なのだから。あったら良いな、こんな店〜と思えたなら、それがニーズの答えだ。ただ、まだこの時には明確に言語化は出来ていない。
・お店で一人ぼっち
震災後、それまでに増してお店で1人の時間が増えた。
お客さんがいない時間、壁のテレビではニュースを見ていた。被災地では自衛隊の方々が辛い作業をしていた。ボランティア活動も増えて、援助物資が届けられたり、芸能人がライブや炊き出しに行ったり…知り合いのミュージシャンも生演奏をしに、被災地に向かっていた。
それを見ながら私はモヤモヤと、ずーっと考えていた。ボランティアに行ってみたいな。お店売り上げ悪いな。お客さん来ないな。震災ってやだな。どうしたら良いのかな。
どーしよっかな〜
どーしよっかな〜…
【先輩の言葉、気付き】
先程、鳴かず飛ばすと書いたが、あの時私は完全に落ちぶれた。お店を任されていながら、きちんと仕事が出来なくなっていた。お客さんが来れば、接客は出来ていたと思う。でも、一人になると気分が沈んでしまい自分ではどうしようも出来なくなった。今思えば、軽い鬱だったんだろう。
1番ひどいのは掃除だ。掃除が出来なくなった。やらなきゃならないのは分かっていたが、身体がどうしても動かない。お店の隅はホコリだらけだっただろう。
そんな時、姉妹店で働く先輩に
「ゆみ子、あんたは全然頑張っていない!」と叱られた事があった。その時、胸につっかえていた物がすーっと落ちていった気がした。
というのも、私は25歳で店長を任さらていて、来るお客さんは私に若いのに凄いね!と言ってくれていた。そっか、やっぱり私って特別なんだってその言葉を鵜呑みにして、自分を成長させる事を怠ってしまっていた。若い店長だからと、応援の意味で来てくれる方もいて、それに甘え切ってしまっていた。本当に私は腐っていたんだ。
先輩の言葉には心底救われた。お前はそんなもんじゃないだろう!と言ってくれたのだから、私の本当の力を信じてくれてるんだととても有り難かった。(数年後、この先輩にこの話をしたら完全に忘れていた笑)けど、私の心は限界だった。もう、このお店を続けられるメンタルではなかった。
オーナーも分かっていたのか、もう私には任せられないと考え、次の店長を探していた。震災の年の梅雨前の頃だった、オーナーに呼び出され2人で話をした。オーナーから、辞めてもらいたい、次の店長は決まっていると話された。それで良いか?と聞かれたと記憶している。私ははい、もちろんです。ありがとうございます。とはっきりと答えた。敬意の無い最低の答え方だ。それくらい限界だったのだ。この時、私は心底ホッとして、これでちゃんと辞められると思った。
私が担当した2年間に幾ら赤字を出したのか、正確な数字はわからないが、今となれば本当に申し訳ない事をしたなと思っている。
もし過去に戻れるとしたらいつに戻る?たわいもなく、こんな会話になったりする。そして、私はこのvassonielを任された時と答えるだろう。2年で辞める事は変えなくて良いが、せっかく私を信頼して任せてくれたオーナーの期待には応え直したいと心から思っている。
【自分でもできるんじゃないかな…】
人の心はなかなか複雑なもので、お店を辞める時の私の心情は絶望感では無かった。このお店を続ける事は確かに限界だったのだが、20席程度の店であれば自分でも経営できるんじゃないかな?と考え始めていた。
・卒店
vassonielを辞めたのは確かお盆の頃だった気がする。表面上は笑顔で辞めていった。しかし内心は…特にオーナーとは信頼関係は修復できないままの終わり方だった。この話はもう少し後に話したい。
とにかく、それまでの重圧から解放された。少なくともバトンは繋げたわけだから、ホッとしていた。
つづく
【次回予告】
9月、27歳の誕生日から独立までの2年半を描きたいと思います。