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何故自己表現があとまわしになるか

2024年が終わろうとしています。

昨夜は大掃除の後家での忘年会を実施し、今年1年の漢字一文字を考えたりトランプで勝ち抜き戦をしたりしながら(勝者はラインスタンプをもらえる)ああ年末だなと実感が湧いてきました。

2024年は、AIの対話システムの研究に携わったり、オーストリアや北米でも登壇の機会があり外から見る「今の当たり前」を捉えなおす時間になりました。うまくまだ言葉にはなっていないですが、課題は万とありますが人や人がつくる社会の面白さやあたたかさはある、分かりやすい何かを求めてそれらが擦り減らないようにしたいと思うような1年でした。

年末が近づく頃にアーティストの坂本夏美さんと研究者の齋藤梨津子さんと対談を戸塚の男女共同参画センターでする機会がありました。このお二人との活動については以前の記事(https://note.com/yumiko_mori/n/n1fb23df9d4aa)にも書きました。今回はその半年に及ぶ横浜に住む6人の母親たちの映像作品の上映会を踏まえた対談でした。テーマは、
『「母親」になることで「自己表現」が遠いものになる時代に生きていること、だれかの表現と出会うことで、あきらめていた扉が開く可能性について』。

何故自己表現があとまわしになるか

その対談で話したことは以下の4点

こちらがメモ

1.「もやもや」を後回し

一つは、まずは自己表現の前に、自分の「もやもや」している感情がありその消化を後回しにしてしまうため自己表現までたどりつけない。言い換えれば、「もやもや」していることに光をあてる時間がないから自己表現が遠のいてしまう。
ケアの渦中にいるときは、考える時間というのが大変贅沢なこと。常に脳の半分以上のメモリが予測不可能な周りに起きることへの対処と限られた時間でできることを「する(Do)」ことで占められていることが多いため、いろんな消化できない感情をおいてきぼりにしてしまう。こどもを預けてその時間をとる(よくリフレッシュのための一時保育ということがあげられるが)ための経済的な制約、その時間とお金の使い方への自分自身の罪悪感(誰かから何かを言われるわけでもない)、近しい誰かにお願いをするための関係性の有無、理由はあげたらきりがない。後回しにするための条件が揃いやすい前提にまずは目をむけることが大事だと思う。

2.「光のあてかた」がわからない

もやもやしていることに光をあてる時間がうまれたとして、その自分自身の感情にどう光をあてて見つめたらよいかわからなくなっているときもある。自分自身の感情に名前をつけてみようとしても、ケアをしている時間が長いと言葉あまり使わない時間が多いため言葉が出てこない。

対外的に誰かと話すことで引き出されることもあるが、その「誰かと話す」ということがなかなか人との関係性がない中では、「話せる人と出会う→話せる安心できる信頼関係が築ける→予定が合う→話せる勇気と雰囲気→語れる言葉を見つける・・・」となかなかな遠い道のりに感じてしまう。

なので、非言語の表現が本当にこういうときこそ大事。ケアの時間は言語優位ではなく感覚優位の世界。それだからこそ感じ取れる小さな動きがあってその表現を引き出してくれる他者との出会いが本当に大切なんだなと、今回のアート活動を横で見せてもらい感じました。

3.レンズ/ものさしを変えないと見えないものがある

自己表現をするためには、今自分が生きている時間と価値観、ものの見え方を捉え直す新たなレンズのようなものが必要だなと感じることがある。生産性と経済性が重視される世界で通用するものさしと定規では測れない。ぐにゃぐにゃな巻き尺のようなものでインチでもセンチメートルでもない目盛りで自分の状態をはかるような感覚です。違和感がその目盛りとはかりかたが違うからなんだと気づけると、本当にすっきりして前むいて歩けるようになるときがあります。天秤にいろんな価値をのせて、コスパがいい悪いとかどっちがいい悪いとかやることに慣れている社会ですが、そういう天秤にのらない、のせる意味がないものがあるんだということをたくさん実感することで豊かさの輪郭が変わるような感じがあります。今回研究者の方が一緒に入ってそれを表現をしてくれていたのでその役割を感じました。


もう一つのレンズのかけかえは、「I(私)」から「We(私たち)」へのかけかえ。個人の力の発揮を伸ばす教育では「一人の人」がいかに多くの能力を発揮できるかが求められ全方位に伸ばそうとするけれどもまぁ、そんなことは難しい。ケアの渦中ではうまくできないことに日々出会いそれを1人の力ではどうにもならないことをつきつけられます。そのそもそも私がなんとかしなきゃモードで自分と周りをみることから、「誰かとともにやるものだ」のレンズで自分と周りをみるようになることで本当にみえてくるものが変わる。

自己表現のためには、そういう現状をレンズやものさしを変えて捉え直す、見る、肯定するというようなプロセスが大切なのではないかと思います。

4.信頼とSolidarity(支え合い、特に共通の利害を持つ個人間の、感情や行動の一致や合意)


こうしたレンズのかけかえや光のあてかたを知ったり、光をあてる時間をもつための環境整備のためには、連続性のある時間と空間が必要。そこで様子をみながら関係性を築いて、予期せぬ方法や手法を何気なく他の人のふるまいや漏れ聞こえる言葉から知ったり出会ったり、違うものの見方に安心して触れられる。表現したい相手や聞いてほしい相手と舞台と出会える。そんな信頼が醸成されるような場があることでこの自己表現を難しくしている環境を変えていけるのかなと感じています。Solidarityという言葉は本プロジェクトで出会った齋藤さんがお話しをされていた言葉ですが、直訳はよく「連帯」とされますがなんとなく違和感があるため、いろんな翻訳を組みあわせると「支え合い、特に共通の利害を持つ個人間の、感情や行動の一致や合意」というような感じでしょうか。感情の一致というのは押しつけがましくおきるようなものではなく、今抱えている似た感情に出会えたりするときの安堵感やそうだよねと言ってもらえる安心感のようなニュアンスですね。


わからないことを大切に


自己表現を試みる時、「よくわからない」とか「で、おちは?」とか結論や系統性やいろんなことを求められ、そこにフィットせずに撃沈することがあります。(私は今でもよくあります。笑 理由、意味、スケジュール、予算、体制、合意範囲、いろんなことから時に夢(私にとっては大切な自己表現)すら語るのがとても難しく感じることがあります)自分の殻にこもりたくなって小さく拗ねたりして、でも、それでも言うことや表現することは自由だからともう一度言ったり言えなかったり。

わからないということは、いい「新しいフェーズ」なのだろうとも思います。意味がわからないは大事なこと。加えて、無力を感じることも大事なこと。(以下記事)


年末年始になると、この上記記事の「良くしようとするのはやめたほうがよい」の言葉に立ち返ります。(「良くしようとするのはやめたほうがよい」村田由夫さんの著書のタイトル)こまちぷらすのクレドにも今はなっていますが、その言葉を今年は何度か思い出し、目の前の事象や人に照らし合わせて、最初は受け止められず、でも一緒に感じてくれる人たちが近くにいることで無力をしっかり味わうことができました。大切な仲間の存在はそういうときに深く感じます。

自分の幼さと弱さを思う存分味わった年でもありました。そのいろんな弱さを重ねて紙縒っていくようにしていくでいいんだよという「こよりどうカフェ」の名前に時に救われ、それができているだろうかと悩むこともありました。

そこに迷いつづける心の健康を保てるように、今年もいっぱい山を登りたいと思います。笑 写真は年末に登り納めでのぼった一枚。みなさまにとってよい一年でありますように。