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東アジアのウェルビーイング指標と「わたしたち」の範囲

ウェルビーイングや関係性についての研究に携わっている方とお会いすることがあるのですがそのお一人よりSelf-as-weについての最近の研究について教えてもらいました。「自分だけではなく、他の方の幸せも同時に考える」という考え方だそうです。

詳しい論文は下のリンクより

https://www.philosophy.bun.kyoto-u.ac.jp/wpろn-content/uploads/2020/08/12c657c6bff1ffb838df464cbf79fcbd.pdf

そうしたSelf-asWeの自己感や自己の良いプロセスを研究してらっしゃる京都大学の出口康夫教授という方がいるとのこと。そしてウェルビーイングの指標をこの出口先生とNTTが共同研究をされているそうです。言い換えて見れば欧州・北米・オセアニア等の個人主義的な考えに基づくウェルビーイング指標ではなく東アジア圏文化に基づく指標ということでしょうか。

自己と他者は異なる存在として認識されている欧州北米諸国に対して自己と他者の境界は重なっていて境界線上にあることが「自己観」を規定しているという考え方が根付いよい日本含む東アジアはそもそも自分とはの考え方やそこからのコミュニティ社会のつくりかたも異なる。
(参考:https://hofstede.jp/idv-latinamerica-eastasia/)
本来はそうした違いを踏まえた指標はないのだろうかと思っていたので興味深くお聞きしました。

人によって私たちの範囲は異なり、家族や職場や属しているコミュニティの範囲ではなく、「あの人の幸せは私にとっても幸せ」と感じる範囲があって、その範囲は広ければよいでも狭いとだめでもないとのこと。「親密圏」とも言われたりしますがその閉鎖的な親密圏では暴力や依存などが隠されてきた危険性もありその関係の対等性もあわせて考えられないといけない。その圏域の安全性や出入りのしあすさが大事なのでしょうね。

その大切な誰かや場、まちに出会っていくプロセスはどういうものなんだろうと、今度は別の研究をしている方とお話をしたところ「愛着」についての過去の興味深いワークショップについて教えてもらいました。そこで出た言葉は「思い出のつみかさね」「苦いも楽しいもつまった経験の重なり」「当事者になれること」。

必ずしも誰かと一緒じゃなくていい、一人にもなれる適度な距離感の「公共空間」で、思いがけず何かや誰かと出会える、その先に、何か大切な経験や思い出のつみかさねが生まれるとよいのでしょうね。そのきっかけを多くの人が探しているように場を運営していると感じます。

こよりどうカフェ(https://coyoridocafe.com/)で毎週金曜日夜開催しているバル(terabaru)があるのですが先週金曜日の夜、こまちパートナー(ボランティアの方々)の方とこまちぷらすスタッフでの貸し切りでの交流会があり、いろんなこまちパートナーの方のこの場との出会いについて聞きました。

人によってはライブ、人によっては絨毯のイベント、人によってはまちづくり・・・などなど驚くほど多様なこの場との接点があり、また、その人ごとに全く異なる「まち⇔場⇔人」の行き来があって大切な人の範囲がうねうね変化していることに気づきました。(必ずしも広がるとかではない)

「戸塚には住んでもないし勤務もしていないけど、いつの間にか自分にとって大事な場になっている」という話を聞いて、そういう感覚についてもっともっと聞きたいと思いました。その場ではそれ以上の深堀はできなかったのですが・・・

「こうあるべき」距離感がないことが生み出す居心地よさや、自分の今に合わせた関わり具合はやっぱり大事ですね。