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アサガオ

夏の花の代表的なひとつがアサガオです。
アサガオは特に江戸時代に多種に進化した花で、そのことをとても興味深く思っています。
江戸時代にはハマると家計が傾くと言われた三大道楽があり、骨董品収集、釣り、園芸、中でも園芸は多大な手間暇とお金をかけて技術を競う、とてもクリエイティブなものでした。その中でもハマる人が多かったのがアサガオの園芸といわれています。江戸時代のアサガオの中には、これがアサガオ? と驚くような「変化咲き」がたくさんあります。
華やかなアサガオへと続く園芸ブームのきっかけを作ったのは、当時江戸を襲った大火であったといいます。1806年3月4日、世に言う「文化3年の大火」によって、現在の御徒町あたりは更地と化してしまい、その跡地に他の植物と一緒にアサガオを植えてみたところ、おもしろい形のアサガオがたくさん咲いたというのです。アサガオには元々突然変異しやすいという性質があり、驚いたり驚かせたりするのも大好きな江戸人が、これに心を奪われぬはずがなくはじめは素朴な花で満足していた人々も、だんだん変わった形を追い求めるようになっていきました。その結果わずか数年で、下谷御徒町は見物客が大勢集まるようなアサガオの名所へと変貌を遂げたといいます。
またアサガオは裏長屋の狭いスペースでも育てることができて、毎朝花を咲かせることから庶民にも人気でした。ちなみに、これはアサガオに限ったことではありませんが、江戸時代の園芸植物の育成にあたっては、人工交配が一切行われていません。対して欧米の品種改良では、古くから人工交配を行うのが普通でした。江戸時代のように全く人の手で交配をせずに、ここまで多種多様な品種を生み出した例は、極めて稀なのだそうです。
アサガオの話で日本人らしいなあと思うことがもう一つあります。
珍しい形の変化咲き朝顔を生み出すために使われたのは、人々の時間や労力だけではなく、当然大変な数の「普通のアサガオ」が犠牲になっているわけです。日本には針供養や糸供養など、お世話になったモノを供養する習慣がありますが、アサガオもちゃんと供養していました。現JR池袋駅のほど近くにある法明寺には、「蕣塚(あさがおづか)」なる供養塔があります。塚には江戸琳派の開祖といわれる酒井抱一の筆によるアサガオの絵とともに、江戸の金工師であり俳人でもあった戸張富久による俳句が彫られています。建立は1826年、富久の死の翌年に、お弟子さんによって建てられたものなのだそうです。
変化咲き朝顔の栽培は、勘と運に大きく左右される世界ですが、当時の人々はある程度特定の形を維持する方法を編み出していたといいます。
日本の誇りと讃えられるアサガオは、メンデルの法則はおろか、受粉の仕組みさえ知らなかった江戸時代の人々の高い経験値と技術によって作られたものです。種類の多さはケタ違いで、ここまで多彩な変化を遂げた植物はアサガオだけだと言われています。今あるアサガオってすごいんだなと思いませんか?今日もいい一日を。8/4

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