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父の17回忌

ん?それって私のせいだったのか?

早いもので、今年は、父の17回忌だ。

私には中学校くらいまでの父の記憶はほとんどない。単身赴任でほとんど家にいなかった。母も働いていたので、典型的な末っ子のジジババ育ち。

私は父に怒られた記憶がない。だからといって好きだった訳ではない。

中学校後半からは、父の職場も近くなり、一緒に暮らし始めた。

でも、私は父が苦手だった。いつも寡黙で、苦虫潰したような顔をしていたし、とても気が小さく、とんでもなく、超が付くほのど心配性。

心配性だから、飲まずにいられなかったのだろう。夜中に、飲んでこけて、顔中血だらけで帰って来たことも何度もあった。そんな父が嫌いだった。何をそんなに心配する事があるのか?それでなんで飲んだくれるのか?少しも父を理解しようとしてなかった。

私も年をとり、noteに出会い、過去の事を色々と思い起こすようになったこの頃。

父ばかり攻めてたけど、父が心配しすぎて、飲みすぎて、(もちろん酒好きだったのだが)身体を壊し、それでも酒なしでは生きていけなくなったのは、私が心配かけ過ぎたせいではないのか?

すべてがわたしのせいではないのだろうが、思い起こすと父にとっては、大きな出来事が多かったと思う。

長くなるが、私の人生も含め、父が心配して酒に走った事柄を整理してみた。

1 私の受験

父は、兄や姉には厳しく、大学受験にも大分口出ししたらしい。姉は女の子だから、と県外に行きたかったのにもかかわらず、県内の国立大学に行かせられた。二時間もかかるのに自宅通学だった。その事で親子でぶつかる事も多かった。

それに懲りたであろう父は、私が名古屋の大学に行きたいと言った時、悲しそうだったが反対しなかった。でも心配でしかたなかったのだろう。その頃だ。血だらけで帰ることが何回かあった。

2  大学時代

大学時代は親の事など忘れ、大いに羽を伸ばしていた私。母の話によると、その頃も父は親元を離れた三人の子供達が心配で飲んだくれていたのだ。

ただ、兄も姉も家に帰る気配はかなかったので、末っ子の私だけでも宮崎に帰ろうと、就職先は宮崎の福祉関係の仕事にと決めていた。一次合格し、2次面接、という時、なぜか宮崎に帰る事が受け入れ難く、

風邪をひいて熱がある、と嘘をつき、宮崎に帰らなかったのだ。

今考えると、なんと恐ろしい事をやってのけたのか。別に悪いとは思ってなかった。どうにかなるさ!と。

夜になってアパートに帰ると、ついてるはずのない明かりがついてる。 

父だ!とすぐわかった。

大丈夫やとか?

友達のとこで寝てた。もう大丈夫。

そうか、ならいい、帰るわ。

え?帰るんかい?そんだけで宮崎から名古屋まで来て、帰って行った。すごくね? 父は酒くさかった。

その就職先はありがたい事に、後で面接を受けさせけくれ、合格したが、結局他の所に就職してしまった。でも、縁とは恐ろしいもので、次男の昭太が入園してとてもお世話になってしまった。

3 結婚

父は公務員、母は教員。なので、どちらかの職業の人と結婚させたかった父。でも私が選んだのは、借金のある商売人。まあ、心配だったのだろうなあ。

夫が結婚の挨拶に来た時、父は逃げた。オロオロする母や叔母。なんとか間を持たせての帰りがけ、向こうからヨロヨロと自転車が向かってくる。

父だ! なんと、道端で夫と父の挨拶だった。 その時も酒臭かった。

3 一人目の孫、由紀子

実家には小さな子供なら泳げるくらいの、大きな池があった。花の好きな母が紫陽花やショウブを植え、とても癒やされる場所だった。由紀子も帰ると、ちゃかな(魚)ちゃかな、と喜んでいた。

しか〜し、ある時実家に帰ると、池がない!

じーちゃん、池は?

ユッコが落ちるといかんから埋めた。

はあ?絶句!

母は花が、花がと嘆いていた。

そんな心配性の父。落とし穴はあるものだ。危ないものは、ゆっこの手の届くとこには置くな、とよく言っていた。

自分で言ってたのに、老眼鏡が壊れたじーちゃん、母のヘアピンで止め金の所を止めていた。それが知らないうちにはずれたらしく、家の中を駆け回っていた由紀子の小さな柔らかい足裏にグサッ!

自分のせいだと、自分を責め、飲んだくれた。全然大した傷じゃなかったのに。

4 二人目の孫、良太

男の子が産まれたと喜んだじーちゃん。うちにも時々遊びに来て孫たちと遊んでくれた。良太が歩き始めの頃、ベビーカーに乗せて散歩していた。が、良太が動いて、ベビーカーから落としてしまったじーちゃん。

俺のせいだと落ち込み、毎日電話で良太は大丈夫か?と聞いてくる。いくら大丈夫だと言っても、良太になんかあったら、オレはどうすればいいのかと、酔って電話してくる。

めんどくなって、病院行ってCTとか撮ったけど、どうもなかったと嘘をついてやった。やっと安心したらしく、良太に何があったら死ぬつもりやったと、恐ろしい事を言っておった。こっちの身がもたないわい。

5 三人目の孫、昭太

昭太のことは、父にとって最も大きな心配事だっただろう。障害をもって産まれてきたが、父は一言もその事には触れず、かわいがってくれた。

昭太の事も心配だったろうが、母親である私の事が心配で飲んだのだろう。ある日、そんな父に愛想つかしたのか、母が朝早く一人で出てきた。呑み助の父に耐えてきた母が家出したのだ。母も飲んでる父を見てるのがつらかったのだろう。

父が肝臓を悪くし、入院を繰り返し始めたのもこの頃だ。アルコール依存症治療の為に三ヶ月の入院もした。

父も母も年老いて、二人で暮らすのが難しくなっていった。その頃は1時間ちょっとの所に家を建てた兄が、一緒に暮らそうと、何度も説得したがウンとは言わなかった。

母も弱ってたので、ディサービスには行ってくれと、頼み込みそこは譲ってくれ、週2、3回は通っていた。文句タラタラだったけど。

私も週2回は実家に帰り、食事の準備したり、父をお風呂に入れたりと忙しく頑張っていた。

そんなある日、父がなんと、

「やっぱり、お前が入れてくれる風呂が一番気持ちいい」と言うではないか。     思いもよらない言葉を聞いて、私はどぎまぎしてしまった。

それからしばらくして、父もあきらめたのだろう。

「老いては子に従え、やなあ」 と宮崎の兄の所に行く事を決心した。

兄の所に行くまでの間も私は、実家に通っていたが、ある日、いつものように用事を済ませ、帰ろうとした私を父が呼び止めた。

「由美子、いつもありがとな。迷惑かけてすまんな」と。そんな事言われたの始めてだった。後ろ髪引かれる思いで帰った。

その何日後だっただろう。

「とうちゃんが冷たくなってて動かんがよ」 と、母からの電話。

確かに大変な事もあったが、たいして介護もさせてくれず、自分で動け、食べられるうちに夜中に一人で静かに逝ってしまった。 家を離れるのがいやだったのか?

私は父に何かしてあげられのか?飲んだくれて嫌いだ、と思ってたけど、心配させたのは私達。ま、心配だから飲んだのか、飲みたくて心配事作ったのか、どっちかわからないけど。

今でも「お前が入れてくれる風呂が一番気持ちいい」と、「いつもありがとな」は17年たっても忘れない。

でも、とうちゃん、あれ以上長生きしてたら、もっと心配事多くて大変だったよ。由紀子は結婚早々大病したし、良太は就職もせず、芝居の世界に飛び込んだし、昭太は心臓手術、失明とかあったし、夫の商売のかたむきもあったし。飲んでも飲んでも足りなかったよねー。

今でも空の上で心配事探してるんやろ?もういいよ。みんな大丈夫だよ。たくましく生きてますよ。

しかし、気になる事が出てきた。血の繋がりは全然ないのに、夫が父に似てきたのだ。飲んでコケて血だらけで帰って来たり、色々心配したり。年取るとそうなるのか?

私は心配性の人の心配をする人生なんてイヤだからね!

このnoteを書いてる時、岸田奈美さんのnoteを読んだ。

私も自分が嫌いだった。父の事、疎ましく思う自分も嫌いだったし、人によく思われようとする自分も嫌いだった。でも、過去を振り返り、色々考えた時、自分を好きにならなければ、人を好きになれない事にやっと気付いた。

若いのにそれに気付いた岸田さんはすごい!

私も[おいどん大好きクラブ]に入会します!


              


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