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言葉で傷ついて、救われる
自分のために綴るnote。
先日、赤いパプリカは緑黄色野菜、黄色いパプリカは淡色野菜だと管理栄養士さんに教えられてびっくりしたyumiigoです。
最近は驚くことが本当に多い。
今朝は、最近のLINEは文字を打たなくていいとか言って、音声入力までは想像できたけど、声を録音したやつを相手に送るのはびっくりだった。
文字打つの面倒くさいって…
確かにそうだけど、相手に伝わる言葉を選ぶという心配りってあってもいいと思うんだけどなぁ。
それがコミュニケーションじゃないのか。
昔から私は”言葉”を大事にしてきたつもりだ。
言葉が人とのコミュニケーションを繋いでいると思うから。
あまりに言葉を選ばない人に、私が無駄に傷つくことはこれまで数えきれないほど。
そのおかげで自分自身は発する言葉をものすごく気をつけるようになった。
自分の無自覚な発言で誰かが無駄に傷つくことがないように。
だからと言って、私自身に向けられる言葉に打たれ強くなるわけではない。
結果的に
”自分は言葉をとても慎重に選んでいるのに、周りは無神経な言葉を軽々しく投げてくる”という感覚になってた。
返って良くないかもしれない。
昔はずっと自分の心が強くなればいいのにと願っていた。
そんな些細な誰かの無神経な言葉に動じない自分になれたらいいのに。
でもそれは無理なんだって結構最近になって気づいた。
誰かの何気ない言葉にいちいち引っかかる自分がいるし、その言葉一つに感情をいちいち逆撫でされる。
「なんでそんな言い方しかできないんだろう。」
というレベルなら、まだマシな方だ。
私の場合、誰かの言い間違いすらそれが深層心理だと捉えて勝手に傷つく。
例えば私を別の人の名前と間違えて呼ばれたりすると、本当に頼りたい人の名前を口にしちゃったんだろうなと思うのだ。
いちいち細かいこと気にするなよと言われるけど、気になるってことを意識的に気にしないって難しすぎる。
ただ、最近はそんな自分の捉え方を理解しているというだけで、少し感情の波は収まっている気がする。
「あぁ、また私は人の言葉に翻弄されている。」
そう頭の中で思うだけで、心の疲労が少し軽減されている気がする。
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現実の会社の人とのやり取り
LINEの友達の返事
SNSで目にする知り合いのコメント
ありとあらゆるところに言葉は溢れていて、私が凹む機会はどこにでも転がっている。
逆に言葉に救われてもいいのに圧倒的に凹むことの方が多い気がしちゃう。
言葉が全てじゃないけど、リアクションがないのも凹むし。
投げられた言葉に凹むのも辛いけど、どっちが辛いかって言ったら…どっちも辛いかぁ。
むかし、何かで読んだ恋愛指南書的な本で、男の人の無言は肯定の意味で、女の人の無言は否定の意味だと読んだことがある。
その真意は分からないけれど、納得いくような気もする。
私は女だからなるべく嫌なことがあったら、だんまりじゃなくてちゃんと言葉にしようとその本で学んだ。
ただ恋愛に限らず、返事がないってことは文句ないってことだよねと仕事を進めることが増えている私の判断はどうなんだろう。
とはいえ、私は自分の思いを言葉にすることは大事だと思うから、そこを放棄したらそこに信頼はなかなか育ちにくいように思う。
だから私はせめて自分の言葉がみんなをプラスの気持ちにしたり、プラスの行動に繋がることを願う。
だから言葉を綴る。
それが広がって私に向かってくる言葉も優しい世界になると信じよう。
ほら、今だって色んなnoteの記事に元気づけられている私だっている。