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ツッコまないツッコミに学ぶこと

対話の重要な構成要素である「開く」と「許す」は表裏一体でありながら、その本質は「許す」ことができるかどうか、という命題の投げかけで終わった前回。
ハンパないモヤモヤ感に答えを持てないまま、今日も筆を走らせてみます。

最近我が家でハマっているお笑い芸人「ぺこぱ」、皆さんご存知ですかね。
ボケのシュウペイとツッコミの松陰寺太勇の2人からなる漫才コンビですが、そのネタの特徴はご存知「ツッコまないツッコミ」です。
シュウペイの自由奔放なボケを、ツッコミであるはずの松陰寺が漫才の常道であるツッコミのセリフを振りかざしつつツッコまずにすべてを許容する。
このツッコみそうでツッコまないというズレが彼らの持ち味なのですが、実はこのスタイルに、件の「許す」についての重要な要素が隠されています。

「ありえない、とも言いきれない」
漫才の途中、およそありえないことを夢想するシュウペイのボケに対し、松陰寺の常識で言えば「ありえないだろ!」とツッコむところ、そのセリフを発しようとする松陰寺の脳裏によぎるのはシュウペイへの許容。
我々は、ある意見、見解に対し、自分の持っている価値観や常識に照らしその賛否を判断しがちですが、この漫才での松陰寺は違います。
ひょっとすると自分自身の先入観、常識が間違っているのかもしれない。
そう感じた松陰寺は「とも言い切れない」と言い足して、自分の判断をいったん留保しシュウペイのボケを受け入れるのです。

「お前が終わらせたっていい」
通常の漫才であればボケが放った最後のボケをツッコミが「もうええわ」とツッコんで終わるという常道をひねり、ボケのシュウペイが漫才を終わらせてしまおうとしたときに松陰寺がその掟破りすら許容し身を引くという彼ららしい幕引き。
自分のツッコミで漫才を終わらせるつもりだった松陰寺が肩透かしを食らいながらもそれを許容するというどんでん返しを見せ、漫才を終わらせるのはツッコミだという役割分担に関する我々の固定観念を見事に打ち砕いてくれます。

ほかにも「お前が座るのなら俺も座ろう」「間違いは誰にでもある」など相方を許容することなら右に出るもののいない松陰寺のツッコまないツッコミは自身の固定観念、常識、先入観からの解放がベースになりますが、その裏に感じるのは松陰寺の相方シュウペイへの絶大なる敬愛の念です。
相方の言うこと、やることがどれだけ荒唐無稽でも掟破りでも、何か意味があるもの、価値があるものという前提で受け止め、決して自分の固定観念、常識、先入観で切り捨てない。
そこには、相手を自分と同等の人格として認め常に公平に平等に扱おうという哲学と、そのためには自分自身の固定観念、常識、先入観を常にいったん脇に置くべしという意思を感じます。
実はこの相手方への敬愛の念をベースにした「公平平等」と「脇に置く」感覚こそが、対話の場で相手を許容するにあたり最も重要な要素だと思うのです。

「公平平等」は、年齢や性別、社会的な地位や知識経験などで自分よりも格が上か下かを判断することなく、公平に平等に相手のことを見る、属性による先入観の排除です。
属性を元に自分と同質であるか否か、過去に出会った敵や味方と同種のものであるか否かを峻別し敵か味方かを判断する動物的な防衛本能がこの先入観の正体ですが、これを抑えるのはすべての人が公平平等に扱われたいはずであるという他者理解であり、その源泉は他者への尊敬の念、愛情だと私は思っています。
相手を見下したり、つまらないものだと切り捨てたりするような感情があっては、公平平等に扱うことなどできるはずがないからです。
相手方を下に見ることなく公平平等に尊重したいという敬愛の念がもととなって、自身の固定観念が邪魔になるのであればそれをいったん脇に置き、そこからの解放を意識的にできるようになる。
その結果、誰が何を言おうとまずいったんすべてを許容し、受け入れることができるようになり、そこに心理的安全性を感じて対話が始まっていくことになるのだろうと思っています。

では、前回お話したような、閉ざされた小さなコミュニティで相手方を「公平平等」に扱い、いったん自分の価値観を「脇に置く」ことができないのは、あれだけ濃密な関係にありながら互いに尊敬の念や愛情が足りないということなのでしょうか。
実は、尊敬の念や愛情がいくらあったとしても、互いの関係性が近すぎて自分自身との同一性を錯覚あるいは期待してしまう、赤の他人であれば配慮できるはずの人権尊重の内側にある、私的な過干渉が原因だと私は考えています。
これは家族、特に親子や夫婦などの非常に近い関係で考えるとわかってもらえるのではないでしょうか。
親子なんだからわかってもらえるはず、夫婦なんだから同じことを考えて当たり前、など私たちは関係性が近い人を「他人」と扱えなくなる傾向があります。
非常に近い関係で過ごしているうちに、自分と同じことを考えているに違いないと錯覚したり、自分と同じ方向を向いていてほしいと暗に期待してしまうことが往々にありますが、そうであってほしいと思うあまり、相手が自分と違う一個の人格を持っていることを忘れ(あるいはわざと無視し)てトラブルに至る経験、皆さんも一度や二度は経験があるのではないでしょうか。

どれだけ仲の良い親子でも夫婦でも人格は別、自分とは違う一人の人間です。
円満な親子、夫婦の愛情のあるべき姿は、相手を自分が尊重すべき人権を持った他者と認識し、最大限の敬意を持って接すること。
関係性が近すぎるが故の過干渉が対話の成立を阻んでいるコミュニティでもそれは同じなのだと思います。
閉ざされた小さなコミュニティで長年連れ添ってきた構成員、同胞同士でも本来は個々別々の存在、自分と違う他者であり、その考えには必ず違いがあります。
そのことを事実として認め、長く一緒にいたから、関係性が近いから自分と同じなのではないかという錯覚や期待を払しょくすること。
そのうえで長幼の序や性別、職業などの属性をいったん脇に置いて互いの基本的人権を認め、すべての人を公平平等に扱うための訓練が必要なのだろうなと思った次第です。
まずは私がそうであったように、互いの関係性の希薄な者同士での対話の場などで経験を積み、これらの気づきを得ることから始めるしかないんでしようね。
ここから先の方法論については私も未だノーアイデアですが。

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