もうひとつのその8 知らなかった
地方の駅前通りにある、商店も兼ねた家。そこで私は育った。家の前にはアスファルトの道路とアーケード付きの歩道、そして街路樹の銀杏の木が一本あった。その根元の土は、わずかに1㎡あるかないか。私にとってそれだけが自然だった。勿論、少し移動すれば田んぼも畑もある。道路に出れば、遠くに山も見える。けれどそれらは幼い私の日常には無かった。
両親は、共にその自宅の店舗で日々忙しく働いていた。子供をゆっくり見ている暇はない。愛情……を子供にそれと分かるように示す余裕などなかったと思う。
家庭というのは、なかなかに閉鎖的なもの。外に向かって見せる顔と、家庭の中で見せるものとは違う。誰もが、家に帰ればホッとして無理のない楽な自分でいたいと思うだろう。けれどそれがあまりにも極端な場合、外で抑えていた感情が家族への攻撃の元となる。
……わかるんだ。自分の心に余裕が無くなるほど働き続けることが、どれほど大変なことか。そして親も、幼い頃に消化できなかった思いや歪んだ認識を持ちつつ責任ある大人として必死に生きようとしていた。
その中で私は成長していく。生まれ持った自分なりの輝きを一つ一つ失くしながら。
たくさんの言葉を浴びた。たくさんの思考の中にいた。
そうとは知らずに親から受け継ぐもの、地域やその時代から寄せられてくる‘’常識‘’のようなもの……。承認欲求や孤独回避のために、それらを自分なりにアレンジして、まるで元から持っていたような価値観に仕上げていく。
その価値観の為にどれほど重いエネルギーの下に自分を置いてきたか、それは既に述べてきた。
……その期間が長すぎてね。もう飽きた。
この後付けの価値観は、一体いつから続いているんだろう。親の親のずーっと前の……何千年続けてきたんだよ。口伝とかある家もあると聞くけれど、どんな名も無い家系にも、その中で受け継がれてきたものがあるはずなんだ。その中にはエネルギー的に低いものも数えきれないほどあっただろう。
「真実」の無い視点から見た、相対性まみれの浄化されない思い……。
理不尽によって、またその理さえも理解できない状態で、悲しみの中、怒りの中、どれほど彷徨ってきたんだろう。
(もう……終わりにしたい。)
そう思っていたある日__。
心も體も疲れ果てていた私は、ふらふらと自宅の庭に降りた。
(実家よりずっと田舎で、いつの間にか自然が身近になっていた。)
何も考えられない状態で、そこに生える草や木の中に座る。
蟻が沢山いる。
(……。なんて楽なんやろう。)
言葉が聞こえないことの安らぎを感じた。
誰の目も無い。誰の思考も無い。私は何も考えなくていい。ただ息をしてるだけで、ここに安心していられる。
草木はただそこにいる。そして、周りの仲間たちと助け合って生きてる。
どこからがこの木で、どこからが別の子なのかわからないくらい、繋がってる。
この幼い木でも、風が強く吹き続けて傾きかけてから、それを解消するように新たな枝をゆっくりと伸ばし始めバランスを取ろうとしてた。
人には、静かで見えにくいネットワーク。ゆっくりすぎて、そばにいないとわからない彼らの柔軟性。
私はそれを知らなかった。
木々が強い風を受けてあんなに生き生きとうねるのを知らなかった。そのうねりが木によって違うのも知らなかった。鳥たちがそれぞれに個性があり、キャラクター化されて描かれているようなしぐさを本当にすることも知らなかった。おおよその自然は、私にとってまさしく‘’背景‘’だったんだ。
それからは、自分の心の掃除を継続しつつ、徐々に木や草花や川や山に意識を向けていった。
散歩の途中に出会う彼らに、静かに声をかける。
‘’こんにちは。今日もきれいね。‘’
‘’ありがとう。素敵な色を見せてくれて。‘’
そんなある日の散歩の途中、小川の上にかかる橋の真ん中で立ち止まった。その川の水がとても透明で、太陽の光を乱反射している。
‘’きれいな水やね。‘’
そう思わず口にした次の瞬間、言葉が浮かんできた。
『 みずは みずのなかで みずになって かえるの 』
(え……何?)