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もうひとつのその6 確かな思い

 見つけた文献と法華経解説の本の見比べ作業をし始めて気づいたのは、先の陀羅尼の場合は多少の違いがあるにせよ、通し訳をするのにほとんど影響はないことだった。要はどう繋げていくかの問題で、それは並行して現実に起こってきたことから得たものの助けを借りることでなんとか解決できた。けれど、今回の陀羅尼はそうじゃない。その一部が省かれていたのだ。その重要度に気づいたのは、通し訳が見えてきてからのことだった。

‘’もうひとつのその4‘’で各単語の意訳を並べたが、省かれていることが分かったのは主に以下の部分である。
 ③ 方便 ⇐ 回我方便
 ④ 仁和 ⇐ 賓仁和除
それぞれ二文字ずつ消えている。伝わっていく中で、仏教的な言葉に集約されてしまったのかもしれない。

(え、だから?)

消えた言葉を知ったとて、そのことの意味をすぐに理解することができない。‘’我を回すってどういうこと?‘’ ‘’和除って何?‘’……。

‘’我‘’……。これを定義するのはとても難しい。
けれど私の感覚では、‘‘自分の観念‘’という感じ。それを使って物事を認識している。あくまで主観である。
‘’回‘’は、まわす、めぐらす、かえる。
‘’方便‘’は、目的に近づくための手段。
‘’賓‘’は、客人、大切な客、主たるものに従う。
‘’仁‘’は、いつくしみ、おもいやり。
‘’和‘’は、心を合わせてやわらぐ、調和する。
‘’除‘’は、のぞく、ゆるす、祓い清める。

ここから文章にしていく作業を行うのだけれど。
納得できるものが出来ずに投げ出す……。そしてまた現実に戻って人と向き合う。そこでストレスを感じてはそれに気づき、洗い流していく中で得られるものがある。それを持って再び陀羅尼に挑戦する。
これを延々と繰り返す日々。

(いつまでやるん、これ……。)

産みの苦しみ。
確かに、子供を産むより體は楽だと思う。
けれど陀羅尼呪の単語というガイドラインがあるとはいえ、心を練ってそこから時空を超えた共通項を文章にするのは大変だった。
幼い頃から自分の中にずっとあると感じていた‘’確かな思い‘’。
そいつが、常に言うんだよ。
‘’そうじゃない。‘’
って、偉そうに。
自我のもう少し奥にある、ぶれない存在。自信のない自我によって、普段は表に出てこなかった本当の自分。
あの黒い塊みたいなものの本体……かもしれない。

その確かな思いを自分の芯として、諦めることなく心を静める。
やがて私は陀羅尼呪に込められた思いと共振していった。


参考文献:

法華経大講座 第九巻
著者・小林一郎
発行者・株式会社 日新出版

法華経陀羅尼呪の覚え書
著者・塚本啓祥
発行者・法華経文化研究所