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その12 本当の意味

 陀羅尼━━。その意訳は「総持」。すべてをたもつということ。
幾つかの仏教的訳の中の一つが、
「あらゆる善をたもち失わず、あらゆる悪をたもち起こさず。」
である。
この‘’善‘’と‘’悪‘’がわからなかった。
仏教経典の中の言葉は、現在使われている日本語とはニュアンスが違うと感じるものが多々ある。また、比喩のようなものも多い。仏教に寄らない訳をするには、善悪のように相対的な概念だけれどもっとニュートラルなもの、後付けの解釈をできるだけそぎ落としたものがいいと思っていた。

直感通り、これを感情の軽いものと重いものに読み替えてみる。
「喜びや楽しみをたもち失わず、悲しみや不安、恐れや怒りをたもち起こさず。」
全ての感情をたもっている状態。けれど重い方は選ばない。軽い方を無くさず選んでいく。

(その為にあらゆる感情を経験してきたのか。
一つ一つの状況は忘れても、その感情自体は総てここに残ってる。
それを味わって味わい尽くして作り上げた、このスペクトルのような束。
これがあれば、どんな暗闇の中でも、喜びという光を見失うことなく選んでいける。自分の意志で自分の世界を作り変える方法じゃないか!)

直感の後に次から次へと言葉が溢れ出す。

(自分の感情を抑えた状態で、枠である正しさを生きてもそこに調和などなかった。感情は抑えるものじゃない。感じきるもの。でないとそれは、どんどん心に溜まっていって、身体にも影響を与えてしまう。
感じて受け止めて、そしてそれが重いものなら手放していく。より軽く温かい思いに変えていく。
でも、手放した感情も総てここにあるんだ。
その重い波動を抱えて生きていたその時間が十分にあったからこそ、それに飽き、それに疲れ切り、今、喜びを選び悲しみを二度とは選ばないという
‘’戒‘’すなわち‘’陀羅尼‘’を、得ることができた。
だからこそ、どの感情も全て同じように輝いて観えたんだ。
だから上下ではなく、左右横に広がっているんだ。)

オセロの一手で一気に色が変わっていくように、わからなかったことがその姿を現した。
本当に心が解放されていくのを感じた。


 能天気な捉え方だという人もいたけれど、今私は幸せである。
勿論、今も色々起こっては諸行奉修中。感情の重さを感じては、苦労しつつ手放している。
体調は少しずつ良くなってきている。
本当の自分でいることが、身体に調和をもたらしていると感じる。
心が重くて家事が嫌だったけれど、今は軽く自然に料理をし、家の中の掃除も気付いたときに出来るようになっている。
(何故嫌だったのかずっとわからなかったけど、結局寂しかったんだなあ。)と笑って動いている。

心の変化によって、土に興味を持つようになった。野菜を育て、雑草も大切だと知った。庭にやってくる鳥達を見るのが日課になっている。
自然は私を癒してくれた。いつだって何も考えない時間をくれる。
大きい虫は苦手なままなので、時々悲鳴はあげるけれど。

価値観の違う親のことも、それはそれとして受け入れられるようになってきた。
違うからこそ、相乗的に事を成せる。
それに親もまた、自分の陀羅尼を自分なりに作ってきたんだと思うと、同志…なんだなあと思うようになった。

 
一つ目の通し訳から約10年。
あの頃より心はもっと静かになった。もっとさらさらになった。
最後に、今出来る限りの陀羅尼の訳を記そうと思う。