氣を整える
断捨離を学び始めて、それまで探し求めていた「シンプルライフ」とか「すっきりと暮らす」みたいな生き方の、もっと土台のようなものに出会ったような気がしています。
表面的にすっきりしているのではなくて、生き方そのものがすっきりと潔く、覚悟が決まって腹がすわっているような感じ。
それは、もともと日本人が持っていた生き方だったことに、一周回って気が付いたみたいな感覚です。
日本には「道」とつくお稽古がたくさんあります。
それらすべてに共通するのは「氣」なのだと思います。
柔道、剣道、合気道、空手道、弓道、書道、華道、茶道、香道、などなど。
五感を研ぎ澄ませ、その場の氣を全身で感じて、今ここに集中する。
筆でも剣でも茶筅でも、その扱いの一挙手一投足に全神経を集中させる。
そのためには、呼吸が整っていることも大切だし、所作のひとつひとつが流れるように身についていることも必要です。
己を虚しくして、道具と一体になって、相対する者(物)に全力で向かい合うこと。相手を目の前にしながらも、己を虚しくしながらも、向き合うのは己心なのだと思います。
日本人は「道」を通して、本当に大切なことを生涯をかけて身につけていったのだと思います。
親しくしていただいているお茶の先生がいらっしゃいます。
普段は穏やかで上品な御婦人ですが、お茶室の中ではキリッとした人格が現れます。物腰はあくまで穏やかですが、凛とした佇まいが、ある種の不可侵な領分を感じることもあります。
到底私が親しくさせていただけるような方ではないのに、という畏れ多さを覚えます。
もうおひと方、麗人とも呼べる方ともお近づきになれました。
畏れ多くも、という経歴の方なのですが、普段は穏やかに微笑んでいらっしゃいます。けれど、スピーチをなさる時などにはプリンセスに豹変されます。
人に備わった品格=気品は、生まれ持ったものなのでしょうか。それとも道を歩くことで、身についてくるものなのでしょうか。
お受験対策で、早期教育には熱心ではあるけれど、本当に必要なものは学力よりも、人間力というか、広い意味での教養と氣力なのではないかと思います。
何もない空間に、さまざまな「見立て」をして、無限の宇宙観を表現できて、それを共通概念として一緒に想像することもできた日本人の教養の深さをこそ、小さい頃から身につけるべきものなのではないでしょうか。、
おままごとやごっこ遊びは、創造力と想像力を養うために、とても有意義なことだと思います。
自分で生み出し作り出す力は、手を動かして空間を変えることから育まれるように思います。
AIが秒で答えてくれるあれこれを暗記するなんて、それこそ時間がもったいない。小さい頃の空想力を育てることに、もっと力を注いだらいいのにと思うのです。
おばあちゃんと言われる世代が、私を含め、すでに戦後生まれになりました。
明治生まれの祖母からは、お盆やお正月のしきたりのあれこれを教わったような気もしますが、それらを生活に取り入れるようなことはしていません。
残り何回の正月を迎えることができるのかはわかりませんけれど、なんでもかんでも断捨離してしまった古き良き習慣を、今一度取り戻すことも必要なのかもしれないと思ったりしています。
氣が整ってくると、目に見えない大切なものが見えてくるのかもしれません。
物より大切なものはあるけれど、物に宿る念い(おもい)を受け継ぎ、伝えていくことも、今を生きる私たちに課せられた使命でもあるような気がします。
「めんどくさいこと≠不要なこと」ではなくて、お稽古を積む膨大な時間の重なりの中にこそ、悟りに通じる道があるのではないでしょうか。その時間の積み重ねが、氣を整えることにもつながるのだと思います。