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誰かを「尊敬する」とは?

ふと、誰かを「尊敬する」ことについて考えたとき、
なんだかよくわからなくなった。
あれ?どういうことだっけ?
尊敬ってなんだ?と。



少し前のnoteの記事でも、
「自然農を提唱された川口由一さんの考え方などを
リスペクトしているが、すべてを絶対的なものとは思っていない」
というようなことを書いていたのですが、

よく考えると、わたし、特に「尊敬」はしていないな、と思ったのです。

ある部分の考え方については共感できるけれど、
尊敬ではないな、と。


俯瞰して自分を観てみると、
そもそも、尊敬している人自体がいないのです。
いいな、素敵だな、と思う人はいるけれど、
それは、「尊敬」ではない。



誰かを尊敬するとは、
その人に対して、全てではないにしろ、
どこか絶対視したり、崇める部分があるのではないのかな、と思うのです。

そして、一歩引いてみると、
誰かを尊敬しているとき、
その裏側には「尊敬していない」人がいるということでもあって。
これはよくない、と、どこか下に見る人が。



私自身も、少し前までは誰かを「尊敬する人」とし、
その人の言葉をすごいものとしてすがり、
それを頼りに生きていたところがありました。

それは、ずっとずっと生きづらくて、
誰かや、何かに、なんとかして楽にしてほしかったから。



でも、今、私が誰かをありがたがる感情がなくなってきたのは
やっぱり、地道にテハナシをしてきたからだと思うのです。

日々、自分に向き合い、とことん感情を味わい尽くして、
思いっきり排出する。
これを続けてきたから、自分の軸ができてきて、
自分を信頼できるようになってきたのです。




そもそも今回、尊敬について考えることになったきっかけは、
自然農を実践されている人が、すべてではないにしろ、
川口由一さんの考え方、「ことば」を
どこか崇め絶対視して、それを基準に生きているように感じたから。

私は川口さんに直接お会いしたこともないし、
その思想やことばについても、深くは認識していませんが
おそらく、川口さんは、ご自身のことをそのように扱われることは
望んではいなかったのだろうなとも思います。


ただ、このような流れも、
すべて一人ひとりの過程であって
それはそれで、そういうものだな、と。




ただ、私は、自分の感覚を信頼したいし、
やっぱり、自分の内側から湧き上がってきたものを大切にして
これからも進んでいきたいと、改めて感じたのでした。

そして、それを真っ直ぐに分かち合えることが
なによりも嬉しいんだな、と。





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