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内なる光に触れるとき
光は、自分が輝いているなんて知らない。
優しい人は、「他人に優しくしよう」なんて思っていない。
愛の人は、「この世を愛の視点で見よう」ともしない。
ただ心をひらいて、心のままにいるだけでしょう。
善であろうとする人、善をアピールする人、
優しさを振りまく人、繊細さを表現する人、
気遣いや愛を押しつける人――。
これらにはどこか、「こうありなさい」という支配感があります。
それは見返りを求め、
その人から見て「そうじゃない(闇)」と思えるものと戦っています。
善でいようとすれば、必ず対立する「悪」が必要になる。
つまり、それはマウントの取り合いであり、
二項対立を生み出してしまうのです。
夫婦でも、親子でも、兄弟姉妹でも、
友達でも、仲間でも、同僚でも――
人がいるところには、これが必ずあります。
そこから抜け出す方法、
その対立に入らない手段はただひとつ。
「内なる光」に触れようとすることです。
闇は、いつでも、どこでも、誰の中にも入り込もうとします。
陰口やいじめの優越感、時には光のふりをして…
優しさや愛の中に隠された攻撃性さえ、見抜いていかなければいけません。
一見、難しいようですが、
「内なる光」に少しでも触れられれば、
それはいつでも助けてくれるでしょう。
本当の愛や優しさは、見返りを求めません。
「自分がそうであるか?」なんてことさえ気にしないのです。
ただ心をひらいて、
心のままに、この世を楽しんでいるだけ――
だから、遊びましょう♡
道徳は闇と戦おうとする
— OSHO bot (@osho_bot_jp) December 24, 2024
宗教のほうは内に隠された光を目覚まそうとする
宗教は闇などを取り沙汰しはしない
ただ内なる光を見出そうとする
ひとたびそこに光が現れれば
闇は消え失せる
ひとたびそこに光が現れれば
あなたは闇に対して何をする必要もない
それはただそこになくなってしまうのだ