愛しい家族へ。大好きな鉄男くんを忘れないために。
私が20歳の時、1匹のチワワの赤ちゃんを、家族には無断で実家に連れ帰った。
今となれば16年間、義達家を癒し、繋ぎ、愛情という愛情の、全てをぶつけて、一緒に生きてきた大切な家族だ。
7月31日。鉄男くんの誕生日であり、弟の桜祐の誕生日でもある。
毎年、ずっと同じ日におめでとうを重ねてきた。
まさか、命日も同じ日になるとは夢にも思わなかったけれど。
2021年7月31日 没
これは私が「あと何日」というアプリで管理していた鉄男くんの誕生日カウントダウンの記録。すぐにスクショする余裕がなかったから、本当はお昼前くらいにお空へいってしまったのだけどこの時間になっている。
そして。このアプリの止め方がわからず、アプリ内では今もなお鉄男くんの時は進み続けている。色々設定を探したが、止めるには消すしかないのか?となった瞬間、胸がぎゅっとなってしまってそのまま放置。
もう、心の中で生き続けているということで、アプリがサービス停止するまではこの際、刻み続けようと思う。
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鉄男くんとの出会いは衝撃的だった。私は20歳になったら犬を飼おうと決めていて、さらに犬種はロングコートのチワワ、短足で白黒で、まろ眉で丸顔がいいと思っていた(特に理由はない)。さらに名前は、出会ってもいないのにすでに「鉄男」にすると決めて数ヶ月探していた。運命の鉄男くんに出会うために。
ある日、のちの鉄男くんとなる「アリー オブ ジェリービーンズ」くん(血統書名)に出会う。
初めてみたアリーくんは、見た目はまさに自分が探し求めていた姿。そして、その後の行動に心を打たれ、その場で一生を共にすることを決める。
アリーくんは、兄弟とともに同じゲージで遊んでいた。飛び合いっこでぶつかり合いしながら、「きゃっきゃっ!」という声が聞こえてくるような可愛らしい姿だった。ちなみに兄弟くんは、面長で鉄男くんとは違ったカッコ良さがあった。
その瞬間、アリーくんの斜め後ろに、どちらかがしたであろう固形の排泄物があった。不思議なもので読める展開っていうものは存在する。私は思った。
「これ(まさか)踏まないよね?」
現実は無常だ。後ろ向きに飛んで戻ってきたアリーくんの右足が、固形物にズドン!!!入った!!!!!
さっきまで楽しそうに遊んでいたアリーくん、一体どうするつもりなんだと観察していると、一度右足を丁寧に振り返り(ゆっくりだった)、明らかに耳を下げやや下を向いてとぼとぼと歩き出し、そっとゲージの端っこに座り込んだのだ。
「この子は私が育てます」
やや涙ぐんだ私がこう言い放つのに時間はかからなかった。
抱っこして、一生幸せにしようと決めた。
この瞬間、アリーくんは「義達鉄男」になったのだ。
そこからしばらくして、ワクチンなど諸々を終えた頃に引き取り。いよいよ家族に会わせることになった。母にそのことを伝えると大激怒!当たり前である。許可も取らずに突然「はい家族です」と命を連れて行くのだから。
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我が家はペットを飼うのがずっと禁止だった。
私たち姉弟は飼いたがったが、両親がそれを許さなかった。許されるのは、カブトムシや近所のお祭りで連れ帰ってきた金魚くらい。賃貸ではなく持ち家だったので、特にそこに制約があるわけではなかった。
両親は「死んだら悲しいから」を繰り返していた。説得を試みても最終的には大激怒されてその都度終了した。だがその論争はたびたび起こる。私は本当に意地っ張りで諦めが悪いのだ。
小学生の頃、父に強くお願いして、ハムスターを飼った。帰ると母は激怒し、おばあちゃんは「ネズミなんて!ああ怖い!気持ちが悪い!」と言った。
お店で気に入った子を店員さんに取ってもらい、家に帰って箱を開けると、片目が潰れていた。見た目は、ウインクしている感じだ。
一瞬「…」と時が止まったが、父が「変えてもらってくるか?」と私に気を遣ってくれたが私はこの子がいい!と逆に気持ちを強くした。
名前は「チューチュー」。安易である。
とにかく優しく、穏やかで、とてもとても癒された。大好きだった。ウインクしたような目もとっても可愛かった。今でも、チューチューが好きで好きでたまらなかった日々を鮮明に覚えている。
嫌がっていたおばあちゃんがいつの間にかゲージの前で「めんこいねえ、めんこいねえ」と目尻を下げていたところもしっかりと覚えている。
その後、弟もモコモコというハムスターを飼うことになったり、子どもが生まれたり、いろんなことがあったが、そこは割愛する。
チューチューは懸命に生きてくれた。約3年生きてくれた。危篤の時は片時も離れたくなく、ずっとぐったりするチューチューのそばにいた。とっても静かに息を引き取った。その日は水泳の選抜練習があったため、休んだ次の日コーチに鬼のように怒られたけど、そんなことよりチューチューと最後まで一緒にいれて良かったと、心の底から思っていた。
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20歳になった私は、成人という権利をフル活用し、犬を義達家に入れると決めたのだ。自分でもわかっている。横暴で身勝手、そんな私を昔から見てきている家族はほとほと呆れ返っている。でもごめんなさい。家族にします。するので。
電話で怒って、その後対面でもプンプン怒っていたが、いざ鉄男くんを目の前に抱き上げると母は「あら〜〜〜〜〜〜〜〜!鉄男くんっていうの。めんこちゃんだね〜〜〜」と顔を緩ませた。鉄男くんを見るときは笑顔、私を見る時は怒り顔だった。そりゃそうだ。そんな簡単に許してもらえるはずはない。ただし、犬は可愛い。そして罪がない。なんなら罪状は私が一挙に背負っている。
義達家に鉄男くんが加入して、家族は豊かさを増した。時に誰かが喧嘩をしても、鉄男くんがいることでほんわかした時間が流れたり、共有しなければいけない話題があることで自然と会話のきっかけも増えた。鉄男くんに話しかけたり、抱っこしたり、愛情を注ぐことが、全員の孤独な時間を奪っていった。いつだって誰かのそばには鉄男がいたのだから。
我が家の隣には、10何匹猫を飼っているお家があり、鉄男はその影響から猫のような動きをする犬になった。顔を洗う姿はどちらかというと猫だった。高い塀をスタスタと歩く猫を見て「なぜ自分は歩けないんだろう」と悔しく思ったに違いない。
別の我が家の隣のお家は、大きな犬を外飼いしていた。ワンダと言った。
ある時、鉄男くんが家から飛び出し、元気に走り出したので慌てて追いかけると、その5メートルほど先にワンダがいた。
ワンダとは初対面の鉄男くん。見かけた途端、嘘みたいにビタ!!!!と止まり、そこから数秒経つと、壊れたオモチャのように大きくガタガタと震え出した。
私は壊れた鉄男くんをそっと抱きかかえ、家に戻ったが、しばらくガタガタと震えていた。これが鉄男くんの内弁慶の始まりだったのかもしれない。
内弁慶な鉄男くんは散歩もろくにできなかったので、自宅のお庭を自由に走らせた。鉄男からしたら、40メートル以上はあるお庭は十分なドックランだ。田舎の良さでもある。その後、一時的に父の仕事の関係で転居するのだが、その際も「庭付き」は物件探しの絶対条件だった。鉄男くんのために他ならない。
鉄男はいろんな名前で呼ばれた。「鉄男くん」「鉄男」「てちおくん」「てっちょくん」「てち」「てつ」「てちゃおくん」「てちけんくん」「てちてち」「手塩にかけた、てしおくん」など、もう後半は全く意味がわからないとは思うが、我が家では愛情のあまり名前が増えていった。「我が家では」と家族も当たり前のように巻き込んでいるが、この名前の発信のほとんどというか全部が私なので、犯人は私です。
動物愛護社会科検定や、ホリスティックケアカウンセラーも受講し取得した。鉄男のために、もっと犬のことを知りたかった。
冬に弱くて、どれだけ対策をしても朝方震えていてどうにもならない時があった。初めてベッドに連れて行って一緒に就寝した。そこから震えはなくなり、毎年、冬の時期だけは一緒に寝るようになった。
まさに同時期、朝方寒さで震えた時、身体を痛そうにキャンキャンと吠えることが増えた。病院を受診すると先生はあっさり「首のヘルニアですね。手術ですよ」当時5歳だった。
手術は、麻酔で死ぬこともあり、鉄男くんは元々心臓も強いわけではなかったし不安が残った。さらに首のヘルニアの手術は術後に後ろ足が不随になることがかなり多いらしい。走るのが大好きなワンちゃんが走れなくなるかもしれないという恐ろしい選択を、そんなに簡単に決めるのか?
鉄男くんの身体を大した調べもせずに、問診程度であっさり言い放った先生に不信を抱き、手術を拒否した。
人間の欲求で生きる喜びを奪うぐらいなら、自然な寿命を全うした方がマシだと思って覚悟もしたが、その後も悪化することなく、というかそんなものはなかったかのように元気に過ごしていったため、あの時に焦って決断をしなくてよかったと今でも思う。
13歳になったばかりの頃。会陰ヘルニア(片側)が発症。突然血便し、発覚した。
たくさん悩んだが、手術はしないことに決めた。前途のように心臓も強くなく、13歳と高齢のため手術に耐えられない可能性が高い。そしてこの病気は自然に生きていると多く発症する病気で、さらに手術をしても再発することが多いという。
うんちが出しづらくなるので、苦しそうな姿は見ていられないものがあったが、投薬や、腸が出てぽっこりしている皮膚部分をさすり(腸押し)排便を手伝うことで、悪化を少しでも食い止める形だ。
最初こそ鉄男も嫌がっていたが、家族の献身さで腸押しはどんどん上手くなるわ、鉄男も慣れてきて、そのうち平然と受け入れるようになった。
父が定年後、嘱託も終え、栃木の元々の持ち家に戻ることになった。
病気も相まってだいぶ弱々しくなった鉄男くん、なぜか栃木に帰るとみるみる元気になった。
「空気がいいからかな?」「水が美味しいから?」と色々考えたが当然わかるわけもなく。
でも、ただただ鉄男が生き生きとしてるのが本当に嬉しかった。
昔、栃木にいた頃、鉄男を見てもらっていた獣医さんは、おじいさん先生だったがとても腕が良かった。毎年の注射等も、引っ越してからの病院は不安なことの繰り返しだったが、おじいさん先生と奥様はとても上手で、鉄男くんは神業にいつも翻弄されていた。
まだお元気で開業してるかなと心配したが、幸いなことにしっかりと続けられていて、10年ぶりに鉄男くんといくことが出来た。さらに覚えていてくれた。ありがたい。。。。
会陰ヘルニアのことも話すと、とても親身にアドバイスをくれた。過度な投薬も与えず、でも良くしてくれようという気持ちが伝わってきた。「おからもいいですよ」と教えていただき、そこからはご飯にはおからを混ぜた。排便もスムーズ、鉄男も好みだったようで美味しそうにハグハグと食べてくれた。
母は鉄男専用のおからを作りはじめた。たっぷりのおからと椎茸と人参を追加して煮た物。ゼリーなどを作る型に入れ、冷凍して保存。毎日解凍してご飯と混ぜる。母の愛が詰まった、手間のかかる料理だ。
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15歳と半年ほど経つと、鉄男の老化が一気に感じられるようになった。視力や嗅覚が利きにくくなり、睡眠時間が増えた。
そこからは、徐々に認知症も発症し、右回りにぐるぐると回るように。
足が弱り、すぐにへたり込むようになった。
いよいよ立てなくなる。老化の一つかと思っていたが、先生によると、心臓の僧帽弁閉鎖不全症が進行しているようだった。足に十分な血液が回らず、踏ん張れないらしい。認知症も悪化、夜鳴きがひどくなり、横たわりながら走ろうと足を懸命に動かしている。
死ぬ前一ヶ月半ほどは、母が鉄男のすぐそばで寝て、献身的な介護を続けた。夜中ずっと対応して起きていることもあるので、父は夜しっかりと寝て朝起きてきてバトンタッチ、母はそれから寝る、といった日々だ。
寝たきりなので、排泄を見てあげたり、促したり、水分補給、食事も介助しなければ難しい。寂しいと「キュン」と泣くので、定期的に抱っこ、すると鉄男もフン…と嬉しそうなため息をついて、安心したような表情をする。
何度も危篤の知らせを受け、私はその度に飛んでいった。弟も行きたい気持ちは一緒だったが、コロナで何度も安易に県を跨ぐのは難しい。弟の気持ちを背負って、私が様子を見にいくのが精一杯だった。もちろんどこに出かけるでもない。
ただただ誰に会うでもなく、実家と東京の事務所を往復した。
実家へ泊まる日は、私が鉄男のそばにいて、母には短時間でも眠ってもらった。介助を一緒にした。
危篤を繰り返して、いよいよ、もうすぐお別れという予感はしていた。十分に覚悟する時間をくれた鉄男くんには感謝しかない。
あとはただただ、苦しまずに、眠るようにいって欲しいと、最大のわがままだとは分かっているが、傲慢な願いかもしれないが、毎日祈っていた。もしも、そのように死ねるのなら、例え私が死に目に会えなくてもいい。とにかく、鉄男くんにとって、一番いい形であってくれと、ひたすら願った。
7月29日、鉄男くんはご飯も食べず、水も飲まず、ぐったりとして、父と母はすっかり覚悟した。何度もこのようなことを繰り返してきたが、いよいよという空気だった。
でも鉄男くんは次の日、7月30日、ご飯をペロッと食べ、元気になったというのだ。
そのことを聞いた瞬間、言葉にはしなかったが、私は何かを感じ取った。
7月31日。弟と鉄男の誕生日でもあるこの日は何があっても実家に行くと、ずいぶん前から決めていた。
私と弟は朝一で電車に乗り、当然どこにも寄り道せず実家へ向かった。
鉄男はお腹を上下させながらスヤスヤと眠っている。
すっかりガリガリに痩せ細っているが、これ以上ないほど愛おしい。
頭を撫でて「お誕生日おめでとう、すごいね、天才だね」と伝えた。
ずっと鉄男のそばにいながら、家族と団欒していた。ただの穏やかな日常の延長線。コーヒーをのみ、テレビを見ていた。
ふと鉄男に目をやると、手足を伸びー…とさせている。
「鉄男起きたよ〜!」と私が言うと、母が寄ってきて「はい鉄男くん、おしっこ出そうね〜」と排泄を促す。そのまま排便も完了し、再び横にした時に、私はウエットティッシュで顔まわりや腕などを拭いてやった。
「少しでも綺麗にしてあげたいから」そういうと母も一緒に拭いてくれた。鉄男は気持ちよさそうに息を漏らした。
拭き終わり、母が「お水飲もうね」と抱き上げ、吸い口を当てた。
私はその時もすぐそばにいて見守った。
母の言葉。
「鉄男くんがおかしい。飲まない。心臓動いてないかも!」
横にして、息をしているか確かめると、つい、ほんのさっきまで動いていたお腹は上下することなく、まだ温かいけれど、鉄男くんは確実に命を終えていた。
「ありがとう。えらいね。どんだけえらいの。大好きだよ。」
自分でも驚くほど、とめどなく言葉と涙とが溢れた。
寝ながら旅立つこともできた。でも鉄男くんは、死ぬ前にちゃんと起きて、今生きてるよって教えてくれて、身体を拭いたり、お世話させてくれて。それでいて、息するように穏やかにお空に旅立ってくれたのだから。
最後の排便。あれは昨晩、急にバクバクと食べたご飯そのものだ。
私たちに会うために、最後の1日を生き抜くために食べてくれたんじゃないかと思う。
母も「明日、ゆみと桜祐がくるよ。お誕生日だよ。がんばれ鉄男くん。」と何度も言ったと。鉄男くんはみんなの笑顔のために待っていてくれたんだと、そう思っている。
7月31日は弟と鉄男の誕生日であり、鉄男の命日となった。
命日とおめでとうを同じ日にできるのか、毎年思い出せるのか、と思うと、最後の最後まで鉄男は私たちに幸せを残してくれた気がした。
火葬の電話をし、その日はこれまでにないほどのご馳走で、誕生日とお通夜振る舞い。泣き笑いのような感じで、何度も鉄男くんを眺めながら、楽しい夜を過ごした。
火葬については、また書きたいと思う。骨になっても、愛おしい瞬間があって、それも忘れずに書き綴りたいからだ。
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ここまで6500文字以上もかけて書いた鉄男くんの思い出は、ほんの一欠片に過ぎない。
そのくらい濃厚でたくさんの幸せを鉄男くんに与えてもらった。
20歳の自分に言おうと思う。
愚かもんが!!!でも、よくやった。罵倒されてでも、鉄男くんを義達家に連れてきたのは、これまでしてきたどんな事より凄いことだぞ!!!と。
亡くなったあとはしばらく、何度も思い出しては泣き、この悲しみを乗り越えられる日は来るのだろうかと思ったが、途中からは四十九日まではガンガン泣こう、と心に決めて過ごした。
そしてまた、この文章を打ちながら、何度も泣いている。
ちなみに、このnote内の「月刊・義達祐未」では当日に直接生放送で話したので(毎月末の会員限定MTGがある/つまりたまたま当日だった)
会員の方は、それはそれは大泣きしている私を知っていたりする。
みなさま、その節はありがとうございました…。
無事に四十九日を終えて、鉄男くんが亡くなったことがやっと表向きに伝えられた。
昔の私のAmebloなどを読んでいた方には鉄男くんはお馴染みなので、どうしても伝えるということがしたかったのと、単純に自分自身のためにこの大切な気持ちを文章にしておきたかった。
16年間、何もかもが愛おしかった鉄男くんへ。
めいっぱい生きてくれてありがとう。
我が家にとってのスーパースター。大統領。アイドル。て知事。天使。大天使。
これからも我が家で、あなたを忘れる人はいないからね。
ありがとうね。これからもね。大好きだよ。
owari.
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