水俣を歩くー当時の現場から
水俣病はどのように広がったのか。
現地を歩くと、地域住民を欺き、経済を優先した当時の社会状況が見えた。
水俣の原点ー百間排水口
チッソは昭和7年(1932)から昭和43年(1968)までの36年間、ここ百間排水溝からメチル水銀を排出していた。当時は、船を置いていらたフジツボが落ちたというが、これはアセトアルデヒドの影響だった。
筆者が写真を撮影しているあたりは、当時は海だったが、汚染のため現在はすべて埋め立てられ、住宅も建っている。写真奥は、チッソの工場だが、元々は塩田だったという。
なお、平成2年(1990)の埋め立て完了を含めると、58年間もの環境破壊をしたということになる同地。文化財指定を目指している動きもあるなか、“水俣の原点”が“公害”を2度と起こさないための原点であるとも言える。
何も知らされなかった住民の暮らしー坪谷
続いて訪れたのは、「坪谷(つぼだん)」という集落。ここに暮らしていたのが、田中静子さんと実子さん。“初めての患者”だ。
詳細は下記記事を参照されたいが、「原因不明の病気」は、人の生活を激変させてしまったことはいうまでもない。
「猫てんかんで全滅」ー茂道
猫に異変が起きていたこと、その時から人間へ水俣病への警鐘がされていたことは前稿でも言及した。ここ、茂道(もどう)では、1954年(昭和29年)に相次ぐ猫の死亡が確認された。その穏やかな小さな港は、当時と同じだろうか。強いて言えば、偶然通りがかった猫が自然と歩いていたということであった。
今は、みかん栽培も盛んだ。
チッソ正門前、そして、水俣川河口へ
チッソ(現JNC)の正門は、水俣駅の正面だ。
工場城下町だった当時の水俣では、元工場長が市長、市議会議員も過半数がチッソ出身者だったという時期もあったという。それだけ影響力のあった状況下で、窒素は、前述の百間排水口から水俣川河口に排水箇所を変更したことによって、不知火海全域への汚染が拡大した。その上、川の流れも強かったことが汚染を急速に進めたようだ。
詳細は、以下の通りだ。
もしこのことが判明していなかったら、汚染の歯止めは効かなくなっていた。とはいえ、水銀はもちろん、カーバイドの残渣だけでなく水銀を含んだ酢酸廃水や硫酸廃水、燐酸廃水などもこの八幡プールに流し込まれていたようで、現在も滲み出ているようである。埋め立てたものの、限界はあり、熊本地震時にも「八幡残渣プールの外周道路が崩れる恐れが強まり、水俣市が警戒を強めた」という報道も。
今回はその場所まではいくことができなかったが、現地に行かれている方も多いようなので、ネット検索していただければと思う。
環境とどう向き合うか
筆者にとって水俣病は、教科書に書いてある問題程度の認識でしか恥ずかしながらなかった。しかし、こうして現地を歩いてみると、差別や偏見が生まれてしまった構造や、利権による隠蔽、さらには取り返しのつかない環境破壊・人体への影響を改めて考えることができた。とはいえ、自分事として捉えることができるかといったら、まだまだ知識も考えも足りていない。
高度経済成長期、日本国内は誰しもが戦後復興を懸命に生き、現代に生きる我々が豊かな生活を享受できているのもその時代があったからだ。しかしながら、戦争や原発事故、そしてPFAS汚染など、いずれも人の利益や何らかの利点を追求した結果生じた問題が横たわっている。
次代に生きる将来世代に何ができるか、DXというデジタル化の波が押し寄せ形骸化・希薄化する人間社会において、今一度自然環境と向き合うことが求められているのではないだろうか。
2025年、少しでも平和な社会が実現されるように祈るばかりだ。
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