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社会不適合

「学校は靴みたいなもの」
「日本の学校はワンサイズの革靴しかない靴屋みたい」

オーストラリアでシュタイナー(芸術教育)幼稚園に勤務する方の台詞だ。4か国の専門家ママが子育てについて話し合う会で出たが、頭から離れない。

さらに続いた「足を怪我してる子ども達が登校拒否になってるんじゃないかな」「無理やり合わない靴を履いて歩かされてるだけ」「さらに傷だらけの足でまた歩かされる」「この靴が履けない君の足はダメだねって言われる」という言葉に泣いた。

そして、こうきた。
「たしかに靴は便利だけど、歩くのは靴じゃなくて自分の足じゃん」。

わたしは靴がうまく履けない子どもだった。
だから息子にいつか「なんで学校に行かなきゃいけないの?」と聞かれたら、どう答えればいいのか分からなかった。だけどこれでいこう。「靴だから」と答えよう。歩くために便利なんだよと。どうしても靴が合わない時は、一緒に他の靴を探しに行けばいい。それでも合うものが見つからなかったら、その時は裸足で歩いたっていいのだ。たくさん怪我をするかもしれないけど、だけど覚悟を持って選べるのなら靴を履かなくても生きてはいける。

日本で精神専門医を務める方の話も印象的だった。得意科目は高得点なのに、苦手科目で0点を取った子どもが泣いてしまったらしく、それを見た彼女は「不必要な劣等感を抱かせてしまった」と感じたらしい。

「不必要な劣等感」という言葉がずしりと響く。
フリーランスになった理由を聞かれる時、わたしはいつも「社会不適合なんです」とおどける。おどけられるほど吹っ切れたが、以前は社会に適合できずごめんなさいと思っていた。合わない靴×不必要な劣等感はこうして生まれるのだろう。だけどたしかに不必要だった。だってわたしは結局、学校や会社員という靴を途中で脱いだけれど、自分にとって心地よい靴を見つけることができたのだから。

そもそも無理に社会に適合しなくとも、適合しないまま社会に貢献することはできる。適合できなくても、貢献できればそれでいいじゃないか。

※この記事は、琉球新報にて連載中の「落ち穂」に寄稿したものです。紙面掲載が完了しているものを許可をもらって転載しております。(改行など一部変更あり)

余談

このセミナーについては以前、noteにも記事を書いたけれど、沢山の人に知って欲しくて落ち穂にも書いたのでした。社会不適合という言葉を自虐的によく使ってきたけれど、このセミナーを聞き、改めて「別に適合しなくてもいいな」と思っている自分に気付けたのは良かったです。

以前は適合したくてたまらなかったのに、気付けばそうじゃなくなっていたのは、フリーランスという働き方がよっぽど合っていたのか、年齢的なものなのか、はたまた社会が変わったからなのかは定かではありませんが、とにかく「今」自分を肯定してあげられなくても、ちょっとした選択や時の流れ、考え方ひとつで根っこからひっくり返る可能性があることは伝えたいし、そのことを自分自身にも言い聞かせておきたいな、と思ったのでした。



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