【五年日記を五年間】日常の心理描写をやめてひたすら現実を淡泊に見つめた結果、健康になった話
五年日記というのを書き始めて、今年から五年目に入る。
五年前のわたしの目標は、「空想はやめてただただ現実を見ていく」というものだった。
もともとゲーム・マンガ好きの両親の元に育ってファンタジー耐性があったり、精神世界や哲学的な描写・思考なども好きだった私はとにかく思考回路が「空想」の世界を中心にまわっていた。
現実に起きた「事実」ではなく「どう感じたか」「なにを思ったか」ということに心のレンズのピントが合い、ありもしない感情までも増幅させた。
「現実」をみていないので人に対しても空想してしまう。
空想の世界では理想が膨れ上がり、「現実的ではない」願望を抱いたり、
相手という「他人」を無視した自分ベクトルでの考えを多く引き起こした。
結果、なんだか病んだ思考回路になったり、相手の顔色をうかがうことによる気疲れ、人とのやりとりでショックを受けたときを思い出しては家で吐き気をもよおしトイレで戻してしまうことも頭痛に悩まされて寝込んでしまうこともたびたびあった。
そこで、日記には気持ちや妄想ではなくただただ「起きた現実の出来事」を記録することにした。とても淡泊な日記になり文章としては何も美しくないのだが、気持ちの描写は「とっても嬉しかった!」「悲しい気持ちになった」とシンプルなものに留めることにした。
こうして、文学やマンガの世界独特の心理描写を日常から排除することにした。目に触れるものも、ドラマやマンガなどは一切と言っていいほど見るのをやめた。空想の世界から離れたのだ。
結果、「心理描写」というものが自分の肌に合わないまでになった。
Xなどでひたすら心理描写しかない書き込みなどをみると、
「でも、それ自分の頭の中だけで起きてることでしょ?」
と思うようにもなった。また、今ではなく過去や未来のことばかり意識を向けている人も多いと感じた。
・○○って言うなんてどういう神経しているの?(相手の思考)
・普通だったらこう考えるよね?(相手の思考への干渉)
・わたしだったらこう思うな(自分の思考)
・こうならないなんてありえない(未来への干渉)
・こういうことがおきたから、きっと未来はこうなるだろう(意味の無い予測)
・昔こんなことがあったときも…(過去へのこだわり)
という人が実に多いのだが、「今」起きている「現実」にだけ目を向けると、事実というモノは
・○○さんと会話した
とか
・○○しようとしたけど、できなかった。
であり、
気持ちというのも心理描写を抜きにしてしまえば
・残念に感じた。
とかなのだ。
そこにこんなふうに残念で、とかこんなふうにひどい言い方をして、とか細かな描写をあれこれくっつけるからおおごとになってしまうことがわかってきた。
嫌な出来事にそんなに解像度必要か?
なにも鮮明に描き出さなくて良いのではないか。
美しい思い出や、楽しかった出来事を感じたときの感動そのままに表現するための言葉が、悪いことを実際の事実以上に悲惨な状況に感じさせるための言葉になってやいないだろうか。
「うーん、今日は○○なことがあって、嫌だったなぁ。」
そこで思考をとめてしまえばいいのだ。
たとえば、嫌だったから自分はだめだとか・・・なんで?なんでそこがリンクする?だいぶゆずって自分はだめだったとしても、嫌な出来事は関係ないよね?
だって、同じ状況だったりもっとだめな人がいるとします。
でも自分と全く同じ状況にはならないですよね。
それって自分のダメさ加減はあくまでも「自分はだめだなぁ」
という事実に限られる現象であって、嫌な出来事は関係ないのです。
「それはその人が運がいいだけ」と言う人もいるかもしれません。
では、その人はなんで運がいいのでしょう?
運がよくなるようなことを日頃しているのではないでしょうか?
ではなぜ、自分はそれがわかっているのに運がよくなることを日々行わないのでしょうか?
嫌な出来事ばかり自分と結びつけ、
良い出来事は自分では引き起こせないと思い込んでいる。
こんな人がとっても多いと思います。
わたしはそんな妄想じみた人生が嫌で、ひとつひとつ現実のことをすることにしました。
お金が心配だから、家計簿をつけました。
収入が足りないと感じれば、アルバイトに応募をしました。
アルバイトの面接に落ちたら、フリーランスでできる仕事を探しました。
なにも一人でがんばったわけではありません。
まわりにも助けをもとめました。
収入が少なくて仕事がほしいことをブログに書いたり、
今はあまり余裕がないからお金のかかる遊びには付き合えないことを公言しました。
お金が入ってくる入り口をつくる段取りが終わってから、実際にお金が入ってくるまで時間がかかることも知っていました。
時間があるうちに動画制作やYouTubeの勉強をして自分の作りたいモノを作れるスキルを身につけました。
お金が入りにくいうちは毎日納豆や豆腐をごはんに乗せただけの食事で過ごしました。肉も魚もありません。家計簿をつけていると、働くことも大事だけれど使わないことのほうが数字として大きいということもわかってきたからです。
まわりは旅行に行ったり、LIVEにでかけたり、美味しい物を食べて楽しそうでしたが、そういうときはYouTubeで自分よりももっと低収入で節約に励んでいる人の動画をみたりして、「みんながんばっている」と勇気をもらいました。
貧乏だったとしても、これが自分の現実であり、今なのだとよく現実を見つめました。
でも、不思議と良い人には囲まれていました。人に褒められることも、大事にされることも多く、今の私は過去の私が作り出した結果であり、よくない部分もあるけれど決して今間違っているわけではないと確信していくことができました。
環境も、人も良く、今の私に足りないことはお金と、仕事をたくさん頑張ることのように思えました。
なので、仕事先を増やして仕事の発注がなくても毎日何か働けるようにしました。
ひとつひとつの収入は少ないながらも、十分な収入が得られるようになってきました。
彼が単身赴任から戻ってくることになり、家にお金も入れてもらえるので食事は豪華になりました。肉やお菓子なども迷い無く購入できるようになりました。
ここまでの出来事の中で、とくに自分を支配する心理描写などはありませんでした。「がんばってきたから報われた」とも「この先は安泰だ」とも思いません。そういうのは妄想です。
単純にお金がないから働き、悩むのが嫌だから複雑に考えないようにしただけだからです。
働いても働いてもお金がなくて悩んでいるんだよ
という人もいると思います。求人はいくらでもあるのだから、他の仕事に買えたりダブルワークしたりしたらいいのではないか、と思います。
人の心がわからないなんて、人に嫌われるでしょう。もっと深く心を感じ取らないと。と思う人がいるかもしれません。たしかに私は人のことはわかりません。わかろうともしていません。人の気持ちをわかった気になるなんておこがましいからです。私のことを嫌いな人も多いでしょう。でも楽しい・面白いと言ってくれる人も大事にしてくれる人もたくさん居ます。
人に合ったとき嬉しい気持ちは素直に顔や言葉で表現し、ただ相手の表面をみて、自分なりにかけてあげたい言葉をかけているだけです。心の奥底には干渉しません。その日嫌なことを言われなかったのであれば、相手が嫌だったとしても「言わないでくれていた」わけであり感謝に該当します。なので、「本当のことを言ってよ」とも思いません。
「そうは言うけど、本当はこう想っているんでしょう?!」とか
マンガではありがちなセリフですが……なんなんですかね
表面に上がってきてないやん。問題が表面化してないうちから解決しようとしているわけで。
そう、まだ問題になってないことを問題として感じてしまう。
これも妄想ですよ!!
実際には問題には火種となるものがあり、この考えが的をついているところもあります。しかし実態がないひとの「気持ち」や「心の奥底」に対してアクションを起こすのは少し早合点なのではないかとも想うのです。
人の気持ちなんて昨日と今日で180℃変わることだってあります。
表面化していなかったことで流せたことが水に流せなくなることだってあります。
ガツン!と嫌なことを言われたら、「それは言われると嫌だからやめて」といえばいいだけなのです
まぁ、実際は、「あなたが悪いからでしょ!」とか言われるわけですが。そしたらその悪いことに関してはちゃんと気をつけてやめればいいのです。
相手の言うことを素直に受け取る気持ちがあればそんなに難しくないのです。
まぁ、どうにも複雑に複雑に考えるのが人間なわけですが、
五年日記に五年間ただただ事実だけを書いていった結果、そんなに気持ちが増幅することもなくなった。なんか、あらゆることがあっさり流せるようになってきたんですよね。だって、一年前の日記や半年前の日記すら覚えてないもん。日記みてると、あー、いろんなことを忘れちゃうんだなって思うんですよ。
忘れるようなことって、イライラするのもショックなのも気にしている間だけじゃないですか。忘れられない出来事やショックなことももちろんあるとは思いますが、じゃぁ一年で忘れられないとしても五年後どうだかあやしいわけだし、毎日「今日の事実」っていう新しい情報はどんどん更新されていくわけで。なかなかショックを受けた瞬間の鮮度は保てないと思うんですよ。
ショックなことにとらわれて何もできなくなって・・・という人もいると思います。でも、毎日ごはんたべて洗濯してお風呂入らなきゃいけないですよね?
変なことに意識が向いてて部屋が散らかったままの人もいます。
いや、考えるのやめてまずは部屋片付けたら?片付けることだけに集中したら?
片付けたとします。また嫌なこと考えます。でも一週間もしたらまた部屋散らかってきますよ?また片付けたらいいじゃないですか。
そうなんです。家事とか、めんどくさいと思っているコトたち。
これが意外に心の健康材になるんですよ。
わたしはこれに気づいてから、めんどくさい家事が好きになりました。
家事をしている間考え事をするのは良くないです。
家事をしているときは目の前に集中。考えるとしたら、家をもっとよくするにはどうしたらいいか?考えます。
新しい収納を考えたり、自分に合わなくなったものを捨てます。
そうしていると、すごく、生活が快適になってきます。
さぁ、もう嫌なことなんて大して気にならなくなっていることでしょう。
目の前に居心地の良い家があるんですから。
そこで過ごせる時間が、あるのですから。
もう何も要らないとすら感じます。
外に幸せを求めなくなります。
きちんと家事が終わっていて、家が整うことが喜びになります。
・・・とても健康ではないですか?
少しエネルギーがありあまっているくらいだから、
ちょこざっぷで運動なんかしてしまいます。
あれ、なにをわたしはいままでつまらない心の遊びに囚われていたのだろうか。
心が空っぽでも、居心地がよいと思えること。
心が空っぽで、楽しいと思えること。
これが健康の秘訣なのだと思いました。
ときどき映画をみて、心の世界に浸るのはいいことだと思います。
でも自分の現実とドラマはちがいます。
皆さんあまりにも現実をドラマティックに捉えていることかと思います。
ただ飯食って風呂入って寝てるだけでいいんですよ。
明日も働いて、お金が入ると嬉しくなって、
使ってしまって「あーまたがんばらなきゃな」それでいいんですよ。
2025年の目標?
「まいにちごはんたべてねる」
でいいと私は思いますね。