Warm Blue Dayに、ひっそり考えること
今日は、自閉症の啓発デーです。例年、仲間と東京タワーに集まって過ごしてきましたが、今年はひっそり、朝、青い帽子と青いジャケットと青いズボンと青い靴下をはいて、出勤しました。
13年前の国連決議文を読み返しています。
。。。全ての人が、尊厳を保障された条件での人生を十全に、まともに楽しめること、自立を促し、共同体への参加を促進すること、そして人権と基本的自由を平等に享受すること。。。
およそ国連の決議文というものは、共同で行うパッチワークですが、
読む人は、一貫したメッセージとして読みます。
人によって、注目する部分が異なるだろうなと思います。
私の誤解かもしれませんし、お叱りを受ける向きもあるかもしれませんが、ここのところをもう少し分解します。
A「そのまんまで素敵だよ」
というメッセージと、
B「人は誰でも、いつでも、変われるんだよ」
というメッセージとの間で、皆ではありませんが、混乱する人が一部におられるように感じます。
A「すべての人に尊厳を」
という理念と、
B「すべての人に自立を」
という理念の間にも、同様の混乱が一部あるかもしれないと思います。
A「一人一人に寄り添おう」
という活動と、
B「すべての人に教育・訓練を」
という活動の間にも、混乱があるかもしれないと思います。
例えば、Bの視点に立った時、その当人の目標と現状との比較であればAと矛盾しないのですが、人は、その知性の当然の活動として、思わず、他人と比較してしまいます。
成績・効率の違い、自立度の違い、素直さの違い、重さの違い。。。
他人との比較の観点からみた時、知らず知らずのうちに、高みから見下ろしてしまっていて、不寛容が生まれやすい土壌ができるように思います。
もし不寛容が、閉じた組織で行き過ぎた時、エスカレートが生じてしまうかもしれません。
逆に人がAの視点に立ったとき、傷ついた心を癒し、状況を改善するために一生懸命になるのが人情だと思います。
とってもヒューマンです。
しかし、このヒューマンな情があふれ過ぎた時、知らず知らずのうちに”過保護”に陥ってしまったり、不本意ながら当事者の成長を阻害してしまうとともに、Bの姿勢への不寛容も生まれがちなのではないかと、感じています。
およそ不寛容は、正義の名の下に生まれるものだと思います。
Aのメッセージも理念も活動も姿勢も、Bのそれも、他方に対して排他的にならず、互いに認め合い、共存し両立できる2つの”軸”に留まるべきだと、私は考えています。
そして、素敵だなと思う企業や施設や取組では、皆、この2つの軸が両立しているように感じています。
両立のさせ方は、一つ一つで異なっているようですが。
こんなことをグズグズ考えているのは、私が混乱しそうになっているからなんだろうと思います。
東畑開人さんの本を拝読した時も、
litalico open labの最終回を拝聴したときも、
尊敬する高原浩さんが、良く引用される糸賀一雄さんの”発達保障”という考え方に感心した時も、
同じことを考えさせられました。
皆さんは、すっきり整理できていますか?
Get in touch: https://www.facebook.com/2020AutismDay/?modal=admin_todo_tour¬if_id=1585796219904462¬if_t=page_invite
世田谷区役所デコ:https://photos.google.com/share/AF1QipMXooV6xBOpm9ZGdUu2CRvP9sTjr0cVLDfVcmgvZwaozDD3e51LZg3tpr85ETu46Q?key=SFN6bnYtZmxnUDQzNmd4ZVMtUHBsMmlqTllUcU53
鈴木款氏の記事:https://www.fnn.jp/articles/-/27703?fbclid=IwAR29IjB8lJZeWmMDV_qcRaGzyiDZCucWx1HP95m3QMWhIVcWokXko0oVy5I
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