自分のことが分からない。
「人に見られている感覚がある」
それは、自分の視界に人がいなくても、家の外に行くと感じる。肩に重くのしかかるような視線が、点や線ではなく、大きな塊のようなものとして、ずっと浴びている感覚がするのだ。
その体験は、なぜ起こるのか。
この感覚を初めて持ったのは、小学生の頃。
僕は同じ学年、全ての同級生からイジメを受けていた。
毎日、登校して教室に向かうまでに「なんで来たん?」「気持ち悪い」と陰口を言われる。自分が歩いていると「うわっ」と言って、同級生が自分から距離をとる。
教室へ行くと、自分の机の上に花が置いてある。
蹴られることや荷物を投げられることもあった。登校してから帰るまでの間、ずっと暴力に晒されていた。
教室にいる全ての人間が敵で、全員が攻撃してくる可能性がある。そんな中で、自分は「何もしない方が安全だ」「何もしてはいけない」と思うようになった。
自分の席に座って、動かない。目線も机の上だけにして、身体も動かさない。
そうすることによって、攻撃される可能性を少しでも下げようとした。
それを卒業するまで続けた。
そして、僕の中に「誰かに見られている感覚」が誕生した。
というふうに、考えている。
更に付け足すならば、虐待されていたことも関わっているだろう。
学校から帰ってくると、虐待をする両親が待っていた。同級生との関係はシンプルで、「自分が被害者」というものだった。しかし、両親との関係は複雑だ。
優しいときもあれば、金切り声で怒りながら殴られることもある。病気の治療を一生懸命してくれたり、誕生日会をやってくれることもあったが、ドアの閉める音でキレて、蹴り続けられることもあった。
僕は、そうした両親に対して不安定な愛着を持った。両親を愛している一方で、暴力をされたことによる強烈な憎しみを、今日に至るまで持つことになる。
両親はいつも突然、怒り始めた。何に怒っているのか、何を言っているのか、分からないくらいの怒鳴り声で、何かを言いながら殴る蹴るという暴力が始まる。
常になぜ、暴力に晒されているのか分からないため、次に暴力を受けるのがいつなのかも分からない。そうなると、緊張感を持つしかない。
僕は、そうして周りからの暴力に警戒しながら子ども時代を過ごした。
ここまで書くと、病的だが「誰かに見られている感覚」を持っても不思議ではないと思うだろう。
僕もそう思っている。
しかし、なぜこうなったのかが分かっても、「誰かに見られてる感覚」は無くならない。
この感覚は今、僕の行動を制限している。
外出時に起こる精神的な負担、実際には起こっていない感覚を無くすためには、恐らく、「誰もそんなに自分のことを見ていない」という体験を繰り返し、認知の歪みを少しずつ変えていく必要があるのではないか。
僕は別に、心理学を勉強したりしていない。
どうやって、自分の中にある現実を、非現実の領域に移動させるのか。この現実を、どうやれば「無いもの」として認識できるのか。
「誰かに見られている感覚」を否定せず、ただ「そうじゃなかった」と感じ直すには、どうすればいいのか。
これがまだ分からない。
恐怖を感じ、重苦しい視線を感じ、外出が辛いのは現実だ。しかし、これは事実ではない。そう思う。
事実とは何なのだろう。
僕の感じていることは、何なのだろう。
妄想?思い込み?
それとも、これは現実であり、事実なのだろうか。そもそも、「誰かに見られてる感覚」は病的なものではないのかもしれない。
分からない。