ポリアモリーという言葉を使いたくない理由
みなさん、こんにちは。今回はわたしが自分の話をするとき、「ポリアモリー」という言葉を使うことに抵抗があるのはなぜか、を考えながら書きたいと思います。
わたしのことについて知りたいと思ってくれていたり、ポリアモリーと言ってもいろんな人がいるのではないかと思ったりしている人に見てもらえると嬉しいです。
ポリアモリーとはなにか
ポリアモリーとは、複数恋愛などと言われる関係性を指す言葉で、関わる人全てに了承を得てお付き合いしたり、親密な関係を持つことを言うとわたしは思っています。以下のような説明もあります。
また、このような説明もありました。
このように日本ではまだまだ認知されていない言葉で、わたし自身、10年前くらいに聞いたのが初めてだと思います。
言葉の作りなどを調べると以下のように出てきました。
これを読むと、90年代にできた造語であるということがわかります。ポリアモリーという言葉自体、まだできて日が浅いと言えるとも思ました。
「ポリアモリー」に出会うまで
自身がポリアモリーだと言い始めたのは最近のことです。2年くらいでしょうか。しかし、それよりも前に複数の人と恋愛していました。
最初は初恋からです。保育園の頃なので恋愛といえるのかどうかは少し疑ってしまうところがあるのですが、同じ教室の子と向かいの教室の子の二人を好きになりました。休み時間は向かいの教室へ行き、それ以外は同じ教室の子と一緒にいるという過ごし方でした。
小学生になると、今度は同じ学年の男の子と女の子(2人がそう自認していたかはわかりませんがそのように思っていました)のことを好きになります。ありがたいことに、2人ともと仲良くなったので、お互いの都合が合うときに遊びに行くというかたちで、楽しく過ごしていました。
その後、高校生になり、一つ上の先輩と付き合うことになります。付き合っている間、わたしはいわゆる浮気を何度かしました。わたしの中で「なぜ、他の人を好きになってはいけないのか」がわからないまま、自分自身に嘘をつく理由もないと思ったためです。浮気が相手にバレて怒られても、何に怒りを感じているのかわかりませんでした。
「自分がされたら嫌でしょ?」と言われることが多かったのですが、わたしはそんなことはないので、全く理解できなかったです。そんな気持ちのまま、大学生になりました。そこで、やっと「ポリアモリー」という言葉に出会います。
「ポリアモリー」との出会い
大学生になったわたしはインターネットでたまたま見た「関西クィア映画祭」のホームページから、映画祭を手伝う当日スタッフ説明会へ行くことにします。これが2010年のことです。本当に軽い気持ちで「楽しそう!」と思って行きました。
当日スタッフとして手伝いをしてから、次の年は実行委員になりました。そこでいろんなものに触れます。あらゆるセクシャリティやマイノリティがあることを知りました。映画を通して、いろんな人との出会いを通して、人との対話を通して。
その中で出会ったのが「ポリアモリー」という言葉です。最初に聞いたときは、そういう人もいるのか程度のもので、自分のこととは思っていませんでした。あまり複数の人と恋愛していることを意識していなかったからかもしれません。それくらいわたしにとっては当たり前のことでした。
結婚という経験
大学を辞めて、働き始めたわたし。そこで出会った人と結婚することになりました。結婚してから、しばらくして仕事を辞めて、時間ができたこともあり、いろんなことを考えるようになりました。
その中に「一対一の関係でいなければならないのはなぜか」というものがありました。それは「奥さん」「妻」と呼ばれることへの違和感やしんどさ、浮気を許さないことや結婚という契約は必要なのかという疑問といったことを感じたり、考えたりしているうちに出てきたものでした。
他に好きな人ができたわけではなかったのですが、やはり「一対一でなければならない理由」が見つからなかったのです。それは結婚しても同じで、結婚という契約に「一対一でなければならない」というものが含まれているのだろうということは理解できても、なぜそうなのかはわからなかったです。
2年ほどの結婚生活を過ごし、わたしは離婚しました。
「複数の人を好きになる」という自覚
離婚した後、わたしは「一対一でなければならない」という理解できない約束をしないことにしました。そのほうが、より自分の人生を素直に生きられると思ったからです。そのため、「わたしは複数の人を同時に好きになるタイプ」と自己紹介するようになりました。
それは友達や知り合ったばかりの人に対してもしている自己紹介で、今でも使います。そう言っている中で「あれ、これってポリアモリーじゃないの?」と不意に思って、初めてポリアモリーについてちゃんと調べました。そして、ポリアモリーであることを自覚したのです。
しかし、わたしが「ポリアモリー」という言葉を使うことは稀で、Twitterなどの文字制限があるときなどには使うという感じです。なので、話して説明する場合は今でも「複数の人を同時に好きになるタイプ」「親密な仲になる人には了承を得ている」と言います。
「ポリアモリー」という言葉を使うことへの抵抗
わたしは「ポリアモリー」という言葉をあまり使わないと書きましたが、それは抵抗感があるからです。それは「ポリアモリー」という言葉を使うことによって、自分をカテゴライズしてしまうことへの抵抗感と言えます。
なぜなら、セクシャリティなどでカテゴライズしてしまうことは、性別を「男」と「女」に分けることと同じだと思うからです。
公衆浴場やトイレ、体育の授業などでしばしば使われる性別は、多くの人が「男」と「女」しかないと考えています。そして、それを前提としていろんなものが設定されています。しかし、それはわたしにとって、とてもしんどいことです。わたしには「性自認がない」と感じているからです。
性自認とは、「自分の性別をどのように感じたり捉えたりしているのか」の答えだと思っています。例えば、わたしは自分の性別がこうだという感覚がなく、男とか女とかXジェンダーだとかっていう言葉にすることができないので、「性自認がない」と言っています。
そんな「性自認がない」わたしにとって、この社会は常に「お前は男か女か」という問いへの答えを迫ります。人と話しても、動物園や水族館などの施設へ行っても、大学にいても、家にいても、テレビを見ても、本を読んでも、その問いがついて回ってくる。例えば、「彼女いる?」「彼氏いる?」という日常的に聞かれる質問にも、その問いがあります。ほんとうにうんざりしているのです。
「ポリアモリー」という言葉を使うことは、それ以外の人たちと自分を区別するということです。そうやって区別していくことは、どんな属性であるかをわかりやすくする一方、「わたしたち」と「あなたたち」という構図を作ってしまうことに繋がります。そうなると、わたしたちは「あなたたち」を無視してしまいがちです。
「わたしはポリアモリーです」と言うことは、そういった自分とは違う人たちを無視しやすくなるのではないかと考えます。それが「ポリアモリー」という言葉を使うことへの抵抗感になっています。「わたしはこうですが、あなたはどうですか?」という気持ちを常に含みつつ、わたしは話したいのです。
「わたしはこうです」という言い方
前項で「『わたしはこうですが、あなたはどうですか?』という気持ちを常に含みつつ、わたしは話したいのです。」と書きましたが、それをもう少し分解したいと思います。
まず、共有したいのは「わたしたち」や「あなたたち」という存在は幻想であるということです。人は1人1人、違う生き物です。顔が違うように、好きの中身や愛の定義、自分をどんな性別だと感じるか、どんな人を好きになるのかなどは、人によります。なので、わたしと同じ人という人はいないと考えます。しかし「わたしはポリアモリーです」と言うと、同じ言葉を使って自身を表現する人たちと「わたしたち」になれるのです。それぞれ、「ポリアモリー」の中にも違いがあるのに、です。
このように「わたしたち(自分と同じ人たち)」と「あなたたち(自分とは違う人たち)」というのは、作られたもので幻想なのです。本当はそういったカテゴリーはないと思います。
それをわたしは忘れたくないのです。自分と他人は違うということを無視したくないから。
だから、常に「わたしは複数の人を同時に好きになるタイプです」という言い方を選択しています。それが自分の気持ちや自分の表現したいことにより近く、自分以外の人を無視しない言い方だと思っています。
ポリアモリーだけど「ポリアモリー」だとは言わない
わたしは自分と他人は違うということをカテゴライズすることによって無視したくないから、「ポリアモリー」という言葉を使いたくないということがわかりました。わたしとあなたは違う、ということを常に意識したいのです。
いろんな人がいて、様々な人が実際に生きているということを忘れてしまうのは恐ろしいことです。自分という存在が無視されるということに繋がるのですから。
これからもわたしは自分の言葉で自分のことを話したいと思います。
ここまで読んでくださって、ありがとうございました。
追記
新しく考えたことを書きました。こちらも良ければご覧ください。(2023/02/01)