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#20 秋本佑「心まで、ディスタンス。」

 街と人が再び動きはじめてから、およそ1週間が経った。閉まっていた店は以前と同じように営業するようになり、「自粛」期間中より生活しやすくなったのはまちがいない。
 だが、まだどうしても誰かと顔を合わせるという気にはなれない。それがどんなに仲の良い人とであっても、いや、仲の良い人とであればあるほど、対面はせず、できればオンラインでやりとりをしたくなる。それは別に、推奨される「新しい生活様式」を率先して取り入れよう、という殊勝な心がけからではなく、実のところ、顔を合わせたときにどのような距離感で話をすればよいのかわからないからだ。

 原因はおそらく、「ソーシャル・ディスタンス」という言葉にある。

 「フィジカル・ディスタンス」ならぬ「ソーシャル・ディスタンス」というこの不思議で馴染みのない言葉は、私に〈とにかく、人との距離をとらなければならない〉というなにやら強迫観念のようなものを芽生えさせるものだったようだ。その呪縛によって意識はどんどん内側へと向き、過剰なまでに誰とも対面せず、ひたすらに自分とばかり話す日々を送ってきた。そのうち気づけば、心まで「ディスタンス」を保つようになってしまった。
 そのため、いざ「宣言」が解除され、(生活様式の変革が「要請」されているとはいえ)この数ヶ月間よりは自由に行動できるようになっても、その「ディスタンス」の縮め方がわからない。途方に暮れている。

 これはいわば、言語の呪術性の一端。〈ひとに寄り添う〉言葉がある一方で、〈ひとを縛りつける〉言葉もある。そんなことを、身をもって実感している。

 言葉の取扱いには、注意しなければならない。

* * *

 この「いま寄り添うためのことば」へのお誘いをいただいてから、すでに1ヶ月以上が経ってしまった。1ヶ月前と今とを比べると社会や暮らしの状況も大きく異なり、もはやこの拙文は完全に遅きに失した感がある。
 これまで、書けそうなことについて考えをめぐらせては、日記やメモにアイデアを書きつけていた。たとえば4月20日の日記には、“速い言葉”(たとえばTwitterのタイムライン?)と“遅い言葉”(たとえば古典文学?)について書こうとした痕跡が残っている。だが、先ほど述べたようにすっかり意識が内向きになってしまっていた私が、だれかに寄り添うということは思った以上に難しく、浮かんだアイデアをまとまった文章に仕立てあげることはできなかった。何を書いても、嘘っぽくなってしまうのだ。
 今、ここにこうしてまがりなりにも外に向けたものが書けているのは、6月になって街や人が動き出したからだと思う。「ディスタンス」に悩まされているとはいえ、街や人が動く空気を感じとったことで、ほぼ完全に閉じていた世界が、少しだけ開けた気がしている。
 これからいかにして元と同じくらいまで世界を開いていくか、思案のしどころだ。

[秋本 佑(あきもと・たすく):1988年生まれ。語学塾こもれび生徒、ことばの本屋Commorébi発起人。]