ブッククラブ〈Language Beyond〉 #35—ドストエフスキー『やさしい女』
○開催日時 2024年8月25日(日)16:30〜18:00(jitsi meetでオンライン開催)
○課題本 ドストエフスキー『やさしい女』
◯参加者 5名
開催メモ(担当:吉川祐作)
5月以来の読書会。暑さが続きますね。今回はドストエフスキーの「やさしい女」(「おとなしい女」)を読みました。質屋が若い女性を妻に迎えるが、二人の関係は破綻し、女性は自殺してしまう。シンプルな筋書きの中篇ですが、いろんな読みが示されました。
前提として、ドストエフスキーは意図的に混乱した状態下の人物(質屋)の一人称を扱っています。書いてあることとないことのバランスがいびつで、特に妻はぼやけて靄の中にいるようです。正直、第一印象は「読みにくいな」「何が言いたいか分からないな」だったのですが、その混乱を受け入れることから、読み直しが始まりました。
うまく人と関わることができず、妻に対して不当な仕打ちをする質屋。彼は妻の死によってかつてない混乱に落ち込んでいます。男のおこないは間違っていたが、その深い混乱は人と触れ合うことなく生きてきた主人公が変化した証だ、という読みがまず示されました。質屋が後悔していることにもひとつの意味がある、とする解釈です。
他方、だからといって妻に対する行為が正当化されるわけもなく、あくまで質屋は批判されるべきだという声もありました。そもそも彼は妻の思いやサインが見えていなかった(見えていない)からこそ、ピントの合わない語りを今なお続けているのです。混乱の奥に、妻はたしかに存在している。でも、この期に及んで、その輪郭が霞んで見えるというまさにそのことが、男の不完全さ(妻にとっての残酷さ)を示しているとも読めます。
「相手を理解する」のは不可能ごとかもしれません。でも、それをあきらめないなら、相手と向き合い、ぶつかりあったり逃げたりを繰り返すしかないと個人的には思います。その修復と反復が許される場が私たちの「生活」です。そう考えた時に、妻がそれをあきらめて死んでしまったことの、自分にとっての残酷さに、質屋はいつか気づくのでしょうか。
自分が見る他人と「その人」の間には必ず差分があります。親しい人の意外な言動や久しぶりに会う友人の変化に驚かされて「こんな人だったっけ?」と思った経験は多くの人にあるのではないでしょうか。そう思うと、最初は戸惑った本作も、しずかに自分に近づいてくるような気がしています。
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