【北陸の劇評】バストリオ+松本一哉『黒と白と幽霊たち』〜死者たちの鎮魂と愚かな社会への抗議〜
シャン、シャン、シャン、……。3人の女性たちが床に座った観客たちの横をすり抜けて行く時、片方の足首に巻き付けた鈴が鳴る。それはまるで巫女によって祓い清められる神事のようだった。伝統的な宗教からの引用はそれだけではない。煙が立ち昇る線香を赤いワンピースの女(橋本和加子)がゆっくりとすり足で運んで行く。さらに金沢市出身のサウンドアーティスト、松本一哉が演奏する大小さまざまな鐘や直径1メートルもありそうな銅鑼の音は、そこに集っている者たちを瞑想の境地へと誘い込む。11月10、11日に金沢21世紀美術館シアター21で上演されたバストリオ+松本一哉『黒と白と幽霊たち』(作・演出:今野裕一郎)は、死者への鎮魂の祈りとして始まった。
通常の座席が撤去され、黒いフローリングが剥き出しになった床の上に座布団が敷かれている。自由席なので適当な場所に腰を下ろすと、会場の両端に観客たちを挟み込むような形で演技スペースが設けられている。一方の壁際には銅鑼や鐘、ドラムセットなどの楽器。反対側は舞台奥の扉が開かれ、会場外の廊下に自然石が積み上げられている。そこは親よりも先に死んだ子どもたちが父母供養のために拾った石で塔を作るという「賽の河原」にも見える。観客は両方向をキョロキョロと見回さなければならない。演出家の今野は白いTシャツ姿で会場内をあちこち歩き回り、照明に使う電球のスイッチをひねったり、小道具を準備したり、水槽に水を注いだりする。静謐な水の音が聞こえると、ホッとする。会場全体が一体となり、観客もいつしかおごそかなセレモニーの参加者であるような気分になっていた。
壁に新聞紙を貼り付けた即席スクリーンに《1701年》《動物が人よりも偉かった時代》《人は人を殺すことをやめませんでした》《稲継さんの忠臣蔵》という文字がプロジェクターで映し出される。黒い服の女(稲継美保)が踊るように体を揺すりながら、「ある日、吉良っていう人が斬られるんよ。まあちょっと誰にかってのは失念しました」と有名な「忠臣蔵」の物語を自分なりの解釈で喋る。続いて《中野さんの忠臣蔵》でも、白いセーターを着た女(中野志保実)は「AとBがいて、BがAを殺して、Cのみんなが怒って…。生き残ったのは1人だけ」みたいな話を軽い口調で語る。忠臣蔵は武士道のお手本として日本人に愛され、映画や舞台などで繰り返し取り上げられてきた。しかし、稲継や中野の語り口は「忠義」などからほど遠く、むしろ無益な争いで命を落とした不運な人々を哀れむような調子だ。
この作品には一貫したストーリーがあるわけではない。3人の女性たちは会話をするでもなく、それぞれに思いを呟く。彼女たちのダンスは体のどこかが引っかかったような動き。床の上には小さなおもちゃの人形たち。浜辺に漂着したような流木。立ち入り禁止の結界を張るような青いテープ。上方から落ちてくるプラスチックのカラーボールや白い紙切れ……。それぞれいかにも意味ありげだが、何を示しているのかは明確には思い浮かばない。しかし、さまざまな要素が雑然と並べられながら、全体として一つの方向性があり、一人一人の動きが細かくコントロールされている。出演者たちからは強い表現意欲が感じられる。
やがてスクリーンには《8月6日》《8月9日》《8月15日》と日本人にとっては象徴的な日付が表示された。広島、長崎への原爆投下とポツダム宣言の受諾による日本の敗戦。橋本和加子が「私は人間です」(天皇の人間宣言?)に続いて「私はとても幸せな人間でした」と言うと、すかさず今野が「彼女は幽霊です。今はもうここにはいません」と説明する。やがて松本による激しいドラム連打。彼女は「俺、殺したくないよ」「殺させないわよ、絶対に」「あなたには生きてほしい」などと叫ぶ。その時、私は作者の意図がわかったと思った。2016年8月に東京・谷中の宗林寺で初演されたこの作品は、戦前の軍国主義へと逆戻りしかねない愚かな社会への抗議と感じられた。前年から安保法制の廃止を求めるデモが全国各地で頻発していた。3人の巫女たちによって会場に呼び寄せられた幽霊たちこそ、悲惨な過去を目の当たりにした当事者であり、証人であるはずだった。最後はスクリーンに「2018年」「11月11日」「晴れ」と公演当日の日付が映し出される。我々はこれから日本をどうしていくつもりか。そんな問いかけが突きつけられているような気がした。
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